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良寛をたどる。

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新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。

亀田鵬斎書『李徳裕 平泉山居戒子孫記』(一)

■原文(前半部分)
李徳裕平泉山居戒子孫

經始平泉追先志也吾隨
侍先大師忠公在外十四
年上會稽探禹穴歴
楚澤登巫山游沅湘
望衡嶠忠公毎維舟
清眺意有所感必悽
然遐想属在伊川

■意訳
李徳裕「平泉山居戒子孫記」を記す
私は先代の遺志を受け継ぎ、平泉荘を造園したのである。その始まりは、私が十四年間、父の忠懿公に随って都を離れていた時である。私はその期間に様々な経験をした。会稽山に上っては兎の穴を探り、長い楚の国の歴史を辿ったり、巫山に上って自然と戯れたりした。また、湘水(長江の支流。湖南省最大の川)に遊び、衡山(湖南省にある道教の霊山、南岳とも呼ばれる)の景色を楽しんだのである。亡き父はというと、湘水に舟を繋ぎとめて広い水面を眺める度に、悲しそうに伊川(洛陽地方の平原)の方角を見つめるのである。

■解説
亀田鵬斎(ぼうさい)が越後に来杖して二年目の一八一〇年十一月十六日に旧新津市の越後三大庄屋桂家で揮毫(きごう)した作品。鵬斎が桂家で揮毫した有名な作品は二つある。一つは、桂家所蔵『萬巻楼(まんがんろう)記』である。鵬斎は『萬巻楼記』で、桂家当主の桂 誉章(かつら たかあき)(良寛の実父との研究あり)が収集した蔵書を納めた「萬巻楼」が、広く越後の文化発展に貢献していることを讃えている。そして、二つ目が、当『李徳裕(りとくゆう)平泉山居戒子孫記』である。桂家に遺された二作品の相違は、『萬巻楼記』が整然とした楷書で書かれているのに対し、『李徳裕 平泉山居戒子孫記』は、同じ楷書でも型にはまらず自由奔放に書かれていることである。その様な書体になった理由の一つとして、鵬斎自身は文末に「酔後汸走筆而書之 半途興書而息」(酒に酔い、半ば余興で流れ走るように書いた)と書いている。
また、鵬斎が当詩を書写の対象として選んだ理由について、大東文化大学書道研究所の分析では「萬巻楼において大好きな書物に囲まれ、主人や気の合う墨客たちと興の赴くままに酒に酔い、筆をとったと思われる」とある。おそらく、それも間違いではないと思われるが、もう一つ、鵬斎は「安住の地」を題材にした詩を好むことも挙げたい。当詩も李徳裕が父の願いを受け継ぎ「平泉荘」という理想郷を造園した思いが詠われている。
ここで一つ疑問が起こるのは、お酒を呑んでいても書写する詩の選択の好みは変わらないが、筆跡は大いに異なることである。このことについて、こじ付け感は否めないが、当詩が書写された一八一〇年十一月にはすでに、亀田鵬斎と良寛の交流が始まっている時期である。鵬斎は良寛と出遇った衝撃を良寛の浮世離れした生活と、その良寛が書く筆跡(特に草書)と語っている。鵬斎は、お酒のせいにしながらも、良寛の筆跡(くずし方など)を意識して当詩を書写したのではないだろうか。
後のことになるが、鵬斎の当詩に見られる書体は、鵬斎独特の書体とされ人気を博す。近代においては、海外のコレクターから「フライング・ダンス」と称されて、人気があるそうである。

良寛記念館 館長

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