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良寛をたどる。

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新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。
亀田鵬斎書『李徳裕 平泉山居戒子孫記』(二)

■原文(中部分)
常賦詩曰龍門南
獄書伊原草樹人煙
目所存正是北州梨
棗熟夢魂秋日到
郊園吾心感此詩有退
居伊洛之志前守金陵
於龍門得喬居士故
居天寶末避地遠游

■意訳
父はもの悲しそうに伊川(洛陽地方)の方角を見つめながら詩を作り「故郷の龍門と南岳の間にある平原の草木や、そこで生活する人家の煙が今も瞼に映る。北方は今頃、梨や棗(なつめ)が熟していることだろう。秋になると、私は今でも彼の地の園林の夢を見るのである」と詠んだのである。私は父のその詩に感動し、いつか父の思い出の伊洛の地で造園をしたいと思ったのである。
父は、金陵(現江蘇省の省都)に赴任する以前、穏やかな隠居生活を願い、故郷の龍門の西にある喬處居士という人物が住んでいた家を手に入れていた。しかし、天寶年間末の乱を避けて、已む無くその土地を離れたのである。

■解説
当詩の作者李徳裕(りとくゆう)の父李吉甫(りきっぽ)は、名宰相として知られ、また、唐代中国全土の地理をまとめた中国最古の地理書『元和郡県志』を撰述したことで知られる。その中国全土の地理を知る李吉甫が「忘れられない」と詩に詠んだ景色を李徳裕は、生涯を掛けて、再現することを誓うのである。また、李吉甫は穏やかな隠居生活を願い、喬處居士(きょうしょこじ)という人物が住んでいた家を手に入れるが、天寶年間末の乱(安史の乱 七五五年~七六三年)により、思い描いていた隠居生活を送れなかったことにも触れている。そのことが、一層、李徳裕に安住の地としての庭園の造園を決意させたのだろう。
亀田鵬斎(ぼうさい)が、書写作品として、当詩を選んだ理由については分かっていない。私見であるが、先月号では鵬斎は「安住の地」というテーマを好むと挙げた。今一つ、挙げるとするならば鵬斎は、詩において、何か「誓い」を立てることが多い。当詩も李徳裕の「安住の地」としての造園の「誓い」が書かれていることから、鵬斎もそこに惹かれて、当詩を書写の対象として選んだのかも知れない。
鵬斎を招いた当時の桂家当主 誉正(たかまさ)は、実直な性格であったことで知られている。にもかかわらず、鵬斎が当詩を書写した場面の詳細について伝わっていない。その理由の一つに、桂家文書の盗難が相次いだことから、桂家が文書を非公開にしたことにある。これについて、筑波大学教授で良寛の実父を桂誉章(たかあき)と説いた故田中圭一氏は、講演会にて「桂家文書が公開されれば、私の良寛やその外の文化人の桂家との関わりの説が立証できるはずである。おそらく、私が生きている間には公開されることは無いだろう。そのことが無念です。」と語っていたそうである。
その「桂家文書」であるが、近年、厳重な管理を条件に調査が行われることになった。その解読には、NPO法人「新津郷土に親しむ会」桂乃部会が担当し、膨大な桂家文書の解読に務めている。良寛記念館としても、「良寛」に関する記載が確認され次第、ご連絡をいただくようお願いしている。当書写作品もそうであるが、なにより、令和の時代となった今、新たな「良寛の逸話」の発見に期待している。
良寛記念館 館長

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