先月まで放送されたNHK連続テレビ小説「らんまん」主人公のモデルで、植物学者の牧野富太郎(一八六二~一九五七)が加茂町を訪れたことは、昭和五十七年(一九八二)に内川定七(さだしち)(元加茂農林高校教諭)が紹介しています(加茂野草の会『野草』創刊号)。五~七月に新潟県立植物園(新潟市秋葉区)で開かれた「牧野富太郎展」や、九月四日付の新潟日報『おとなプラス』紙も、改めてこの事実に注目しました。しかし、来町の理由は詳(つまび)らかにされていません。以下では、その動機を明らかにしてみます。
富太郎が来町した昭和十九年(一九四四)は農業が深刻に落ち込み、にわかに野草食が脚光を浴びました。この年四月から五月にかけて、長岡第一師範学校女子部(のち新潟大学教育学部長岡分校)の一部学生が加茂町に滞在し、加茂農林学校と県立農村工業指導所(各神明町)で野草利用の実習を受けました(『新潟日報』昭和19・5・11)。給食や家庭の食卓にゆとりをもたらすと、国は盛んに野草食を喧伝(けんでん)し、家事科(家庭科)を目指す教員必須の技能としたのです。この実習は注目され、他県の視察も受けました。
六月二十七日、八十二歳の富太郎は次女鶴代と来町し、翌日から三日間、農村工業指導所と加茂農林学校へ通いました(『牧野富太郎植物採取行動録』)。農村工業指導所では、東日本の一道・二二県の技術者等を集めた食糧資源利用講習が開かれ、富太郎は「食用野草について」の演題で初日の講師を勤めました。ただ、講習に先立つ六月三日付の新聞に載った広報では、富太郎の演題を「食用植物に就(つ)いて」としています(『新潟日報』昭和19・6・3)。「食用植物」から「食用野草」に変更したのは、収穫期を前にいっそう食糧事情が悪くなり、野草の利用をうながすほか選択肢がなくなった戦時下の実情をうかがわせます。ほかの講師も、「救荒(きゅうこう)植物の栄養価」と「野草調理実習と試食」を演題とし、主眼はいかに目下の困難を乗り切るかにありました(『新潟日報』昭和19・6・28)。
富太郎は金銭的なゆとりが少なく、地方から講師に招かれる機会をとらえて、植物研究に精を出したといいます(『牧野富太郎自叙伝』)。十九年の来町でも、その精神を発揮しています。青海神社の境内を歩いた彼は、星がきらめくような大小の白い斑点(はんてん)を持つヒメアヲキに注目し、「ホシテンヒメアヲキ」の新称を与え、主宰する学術誌に発表しました(『牧野植物混混録(こんこんろく)』第三号)。こうして、富太郎は国策の講習会で講師を勤めるに留まらない足跡を、加茂町へと残していきました。
(中澤資裕・植物愛好家 佐藤萬三)
※「牧野植物混混録」の「録」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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