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加茂の風土記 加茂小学校の自由主義教育

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新潟県加茂市

穀町に育ち、大正十四年(一九二五)に加茂小学校へ入学した元教員の桑原與四郎(よしろう)(一九一八~二〇一五)は、三~六年生に受けた授業を以下のように回想しています(平成十八年談)。(1)七三人いたクラスを八人程度の班に分ける。(2)次に教材がいわんとする主題を討議する。この主題を「中心問題」と呼ぶ。(3)最後に各班で出た中心問題を、学級全体で討議する。科目が書き方(習字)なら、(1)教師にどのページを手本とするか指示を受け、何日か練習する。(2)清書になると、できた作品を各班の代表が掲げ、児童間で意見や批評を出し合う。教員は児童が誤った方向に脱線しないか注意深く見守るのが仕事で、卒業までの四年間、先生から習った記憶がないと桑原は述べています。
大正時代の一部には、従来のように画一的でなく、生き生きとした教育を目指す動きがありました。加茂小学校では、大正十四年(一九二五)を嚆矢(こうし)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)から講師を招き、自由主義的な教育法の吸収に努めました(「加茂小学校沿革誌」二)。
招かれた講師のひとりが、大正十五年と昭和二年に加茂小学校でみた授業を印象深く書いています。たとえば四年生の算術だと、生活に密着した題材から児童が問題を作り、教師は子どもが解決法を発見するよう導く役目を担いました。綴り方(作文)の場合、直感や研究から得られた成果が発表され、ここでも児童が先に立ち議論をまとめていきました(清水「新潟県加茂小学校を観る」)。
この指導法を説き、大正十四年の第一回講習会で加茂小学校を訪れた木下竹次は時間割を作らず、教科書も使わない方針で、女子師範の同僚等へ「諸君は教えすぎている。何もいわないつもりで教壇に立て」といましめたといいます。(奈良女子大学文学部附属小学校『わが校五十年の教育』)。その影響は大きく、昭和四年に新卒で加茂小学校へ赴任した小柳善雄(八幡、一九一一~二〇〇六)は「君は師範学校で学んだことは全部忘れて、四月いっぱいは毎日一時間俺の教室を見に来い」と先輩の指導があり、参観したどの教科も発表討論の質が高く、師範学校附属小学校など比較にならないように見えた、と述懐しています(小柳「昭和初期加茂小学校に着任した一青年教師の追憶」)。
やがて全体主義が台頭し、こうした方針は姿を消していきました。しかし、時代の思潮を捉えた試みとして再評価に値します。
(中澤資裕)

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