■旧斐太中学校
○戦後の厳しさ残る 高度成長前夜の風景
斐太村立斐太中学校は新制中学校として昭和22年に誕生。昭和45年に新井中学校に統合されるまで存続しました。
紹介者の江口さんは昭和32年3月の卒業です。当時の校舎は木造2階建て。基礎が石垣(ぼたもち積み)。当時としてはぜいたくなつくりだったそうです。各学年が100人超、300人以上が通っていました。
戦後間もないころ。「高校への進学は半分くらい。男子は職人やでっちに出ることが多く、住み込み。女子は紡績工場への就職が多かったですね」。「交通は歩くことが中心です。校区では、三ツ俣から通う生徒はかなり遠かったですよね。市柳橋は、当時丸太3本くらいの簡単なものでした」今とは風景が違います。
稲作は盛んだったので、弁当にご飯はありました。でもおかずは、冬場なら漬け菜とたくあん。夏場はみそ漬けや梅漬けのみだったそうです。
「遊ぶことには困らなかったです。ナマズ、ドジョウやモクズガニを獲りました。食べるものが無いのだから獲ったものはみんな食べました。内川でもマスやサケが上がってきていた時代の話です」遊びも食べることにつながっていました。
大根の葉っぱを干して貯蔵したり、スイカを食べた後の皮をつけものにしたり、気に入らないものでもなんでも食べなければならなかったそうです。苦手だったのは、くず米を粉にして作った団子。「あの頃からすると、今の生活は夢のようだね」と江口さんは話してくれました。
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