『都市と田園が調和したまちへ』
佐野さんと深い親交のあった藤井さんに伺いました。
亀田郷土地改良区で昭和51年から平成6年までの18年間、佐野さんのもとで働く中で、30も歳が離れている私に温情をもって接してくださいました。長年そばで見てきた佐野さんを一言で表すなら「逆境をバネにして、プラスにすることができる人」です。
昭和39年の新潟地震などの影響で栗ノ木排水機場の機能が低下したとき、佐野さんは以前の状態に戻すだけの「現状復旧」でなく、元より良く生まれ変わらせる「改良復旧」を掲げ、わずか3年で従来の1.5倍の排水能力を持つ親松排水機場の建設を実現させました。英知と熱量で国や県、関係者を納得させ、これまでの常識を覆したのです。
佐野さんは、私に昔の苦労話も沢山聞かせてくださいました。理事長に就任された当時の土地改良区は莫大な借金を抱えており、その背景には工事優先による財政的裏付けのなさと組合費の未納がありました。佐野さんは夏の総代会で、氷の入ったバケツに浸した手ぬぐいを頭に巻き、財政再建案に反対する農家・総代に粘り強く説明を続けたそうです。輪中という運命共同体として、統一と団結が必要という理念あっての行動でした。
その後、亀田郷地域センターの設立により、農業・農村の垣根を越えて、異なる立場の住民同士が交流し、成長のエネルギーを生み出す基盤を作りました。その結果、亀田郷はさらなる発展を遂げ、都市と田園が調和した今日の江南区の風景に繋がっています。まさに、総合計画に掲げる新潟市が目指す都市像「田園の恵みを感じながら 心豊かに暮らせる 日本海拠点都市」と深く通じるところがあると思います。
佐野さんは、立場や信条、年齢などにかかわらず、分け隔てなく接することが出来る器量を持っていました。私も、そんな佐野さんの人柄に惹きつけられた一人です。「『面倒』『参った』は禁句」と言い、地元亀田郷から世界まで見据えながら懸命に働く姿は周りの人々に勇気を与えてくださいました。佐野さんの志が次の世代にも引き継がれ、新潟市が発展していくことを願っています。
五十嵐建設工業株式会社 顧問(元 亀田郷土地改良区 事務局長)
藤井 大三郎さん
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