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あれから70年記憶を次世代につなぐ 内野大火

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新潟県新潟市西区

70年前の昭和28年12月10日に、内野町で大火により多くの家や商店が焼失したことをご存じですか。今号では、大火経験者のお話や当時の写真を基に、忘れてはいけない災害の記憶を次世代につなぐために内野大火を紹介します。

◆内野大火の概要
昭和28年12月10日午後5時前、新川付近の木材作業場から出火。内野町の公共施設や2軒の酒蔵が全焼し、放水による消火作業では鎮火できず消火と破壊作業により、夜にようやく鎮火しました。焼失した地域は、弥彦街道沿いの両側で、内野町中心商店街など128棟、約46,000平方メートルを焼きました。
内野大火がこれほどの災害になった理由に
・風速10mを超える北西の風が吹いていた
・新川が風上であったため川の水を消火に使えなかった
・西川が冬場の渇水で水が少なかった
・多くの家がこば葺き屋根で燃え移りやすかった
・家が隣接しており火が燃え移りやすかった
・弥彦街道の幅が狭かったことで、延焼しやすく、かつ消防車が通れなかった
などがあります。
大火の規模として、記憶に新しい平成28年に起こった糸魚川大火が、焼損棟数147棟、焼失面積約40,000平方メートルでしたので、ほぼ同規模の災害であったと分かります。

◆内野大火体験者に当時の様子を聞きました
・川内 正子さん〔当時14歳(中学2年生)〕
大火の話をするのはこれが初めてで、70年前のことなのでずいぶん記憶が飛んでしまっていますが、3つだけよく覚えています。荷物を運び出したこと、避難したこと、仏壇を運び出したことです。
出火した時は、まだ学校に居てサイレンを聞いてすぐに家に帰りました。自転車屋を営む我が家には大きな看板があり、そこから燃え出し、火の回りがものすごく早く全焼しました。その中、自分たちの荷物をリアカーに積み、坂の上に避難したことを覚えています。
しばらく母の実家に避難していて、1か月ぐらいで小さな小屋を建て、自転車屋を再開していました。その後、半年か1年ぐらいで家ができ、高校生の時はそこから通っていたのを覚えています。
大火の後は、母の手伝いをしながら生活していました。忙しくて大変だったけど、まちが復興する様子を肌で感じることができ、今思い返すとそれなりに、悪いことばかりじゃなかったと思っています。

・内藤 実さん〔当時13歳(中学1年生)〕
内野大火の時、夕飯作りの手伝いを終え、「さあ、ご飯だよ」って時にサイレンが鳴り、夕飯も食べずに外へ飛び出すと、火の粉がすごく、強風にあおられた真っ赤な火がどんどん上がって、これは大変だと思ったことを覚えています。
当時、消防団が「十字路(内野四ツ角)までには火を絶対止める」と言っていましたが、十字路過ぎてもなかなか火や火の粉は止まりませんでした。十字路より東にあった雑貨屋の我が家まで火が50mぐらいになった時、家族に「学校の教科書だけ持って早く山の方へ逃げろ」と言われ、着の身着のまま逃げました。
翌日になって家を見に行ったら、跡形もなくきれいに焼けて、残ったのは屋根瓦だけでした。
大火の後は、生活のためにお店の小屋を住宅より先に建てて、お店を再開していました。大火では、全部焼けてしまいましたが、ものすごく早くまちが復興していき、慌ただしく過ごす間に元の生活に戻っていったことを覚えています。

◆内野大火の記録と記憶をつなぐ展示会 開催中
内野大火の記憶を次世代につなぐため、当時の写真や記録を展示しています。直接会場へお越しください。
日程:12月20日(水)まで
会場:内野まちづくりセンター

■内野大火の資料や写真を探しています
越後新川まちおこしの会では、内野大火や地元の古い資料を探しています。新川や内野に関する写真や資料などがありましたらご連絡ください。

問い合わせ:越後新川まちおこしの会・加藤
【電話】090-4701-3910

問い合わせ:西区地域課広報・広聴担当
【電話】025-264-7180

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