■「江戸時代わが村の暮らし」(30)
滝原・上野山・小見「三ヶ村の定(さだめ)」(2)
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
前回の続きです。
滝原・上野山・小見三ヶ村共同の「村定(むらさだめ)」〜寛政(かんせい)二(一七九〇)年〜の二項目めは、少々複雑ですが、こんな内容です。
◇三ヶ村定の内容(2)…
・小作が終わった田畑について、それまでの小作人や村役人に相談もなく、勝手に預かって耕作を始めてはならない。
・地主から雇われたからと言って、勝手に小作が終わった田の人足や水見等の世話をすることもやってはいけない。
・村役人とこれまでの小作人に話を通した上で、田を売った人が、その田を小作するのはかまわない。
・しかし、村役人に断りもなく、地主になった者と共謀して勝手に小作をするというやり方は、決してやってはならない。
◇背景に田畑の売買
江戸時代の百姓は自作農が原則です。しかし、様々な理由で田畑を小作に出すことも少なくなかったようです。そんな中で、特に複雑なのが、売買による地主と小作の関係でした。
実は、幕府の法令で田畑の売買は禁止されていました。そのため、どうしても田畑を売って換金する必要が出た時などは、質入れ・質流れという形で、実質的には売買が行われていました。
質の田畑は、新たに小作に出されたり、元の地主が小作人になったりしていました。そうなると、田畑の持ち主も小作人も、その時々によって変動することになります。
◇納税は村役人の大仕事
当時の年貢(ねんぐ)は、村請制(むらうけせい)といって、領主から、村全体の納税高が示されます。庄屋たち村役人は、それを村の田畑持ち百姓に割り当て、完納する責務を負っています。
地主と小作が変動していて、それを村役人が承知していないのでは、納税割当てに差障りが出るのでしょう。小作料には、納税分も含まれている場合があったので、なおのことです。
◇田畑入り組む三ヶ村
その上、この三ヶ村は、もともと田畑が入り組み、しかも、他村の田畑耕作を請負う出作入作(でさくいりさく)も多くありました。
だからなおのこと、地主が誰で、小作が誰なのか、村役人が承知していないところで勝手に取決めされては、いったいどの村の誰に課税したらよいのか、困ることも多かったのでしょう。
勝手なことをしてくれるな!そんな村役人の声が聞こえてきます。
(原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQRから)
※本紙P19参照
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