■「江戸時代わが村の暮らし」(41)
奥山は十五ヵ村の入会山(いりあいやま)
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
◇十五ヵ村とは
前回までは小見・上野山・滝原三ヵ村の入会山(いりあいやま)の話でした。今回はもっと規模が大きく、十五ヵ村の話です。
十五ヵ村とは、高田・桂・朴坂・若山・新保(上新保)・上野新・平内新・小見・上野山・滝原・小和田・中束・蛇喰・中(南中)・宮前。
天保(てんぽう)二(一八三一)年、前年が凶作で困窮(こんきゅう)のため、高田〜滝原の十ヵ村が相談し、十五ヵ村入会の奥山の木を伐って薪にして売ることにしました。
◇奥山とは
光兎山の登山道は、山頂までの間に虚空蔵峰(こくぞうみね)・観音峰(かんのんみね)・雷峰(いかづちみね)とピークが三つあり、厳しいアップダウンで有名です。
最初の虚空蔵峰には、国土地理院の三角点があって、そこの山名が「奥山」です。
「関川村史」は、ここが、中世史上名高い「奥山の荘」の名の始まりだとしています。
それはさておき、光兎山は信仰の山です。山全体を神域として氏子(うじこ)十五ヵ村で大切に保護してきたのです。
そこの木を凶作の救済策として、やむを得ず伐ろうというわけです。
◇高田村庄屋の念書
しかし、山麓に位置する小和田や中束等の五ヵ村は、この合意に加わっていません。
それで、高田村の庄屋五右衛門が、それらの村との交渉を引き受けました。その際の念書が、写真(※本紙参照)の文書です(部分)。
万一争い事になっても、自分に任せてもらう。費用も自分が持つ、とあります。
但し、問題がこじれて難しくなった場合の費用は、別途相談して計上するようです。
◇認識のずれ
ところで、以前紹介した文化三(一八〇六)年の田麦掘割訴訟で、藤沢川の上流域は十五ヵ村の入会山で用水林だと平太郎は主張しました。水利権の根拠にしたのですが、作り話だと反論されました。
今回の文書を見ると、奥山の山域一帯は元々十五ヵ村の入会山だと認識されています。
文化三年の訴訟で平太郎は、それを藤沢川上流域まで拡大適用したのでしょう。
しかし、訴訟で中束村は、そこは神域で乱伐禁止の保護林ではあるが、入会山ではなく地元の山だと反論しました。
今回の五ヵ村の不同意も、そのような認識のずれがあったのかもしれません。五右衛門の交渉の結果は、不明です。
(原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQR(本紙参照)から)
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