■「江戸時代わが村の暮らし」(42)
鮭川漁・牛屋村との争い(1)
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
◇下流を〆切られた
牛屋村の村人が、荒川の流れを〆切り、持ち網鮭漁を行った。寛政(かんせい)六(一七九四)年のことです。海から上ってきた鮭を一ヶ所に誘導して、持ち網ですくい捕るのでしょう。
牛屋村は、小見村から十一キロほど下流の村。そこで〆切られては上流に鮭は上らず、荒川沿岸の村々は大憤慨。上関村を筆頭に十四ヵ村が水原代官所に訴え出ました。
牛屋村の言い分は、枝分かれした分流を〆切っただけで本流は〆切っていない、上流には影響ないはずだ、昔からそうやってきた、というもの。
鮭漁は漁業税の対象で、代官所にとっても大問題です。
◇水原で和解合意
訴訟の多くは現地差戻しで、地元の大物庄屋が仲裁人になって示談にします。しかし、今回は話合いが成立しなかったのでしょう。代官所での本格裁判となりました。
そうなると水原に泊まり込み。原告側と被告側と別々に、裁判専門の宿を取ります。それを公事宿(くじやど)と言いますが、地方では郷宿(ごうやど)とも言いました。
宿の主人が、裁判の事務手続きから和解交渉まで、すべて取り仕切ります。
代官所での取り調べで、牛屋村の言い分に非があると認められました。たとえ枝川でも〆切はまかりならないということです。
民事裁判のほとんどは、裁決が下される前に宿の主人二人が引取り、仲裁に入って和解合意を結びます。牛屋村は、以後、〆切持ち網漁は行わないことを約束して証文を取り交しました。
◇郷宿の配慮
これでめでたしめでたしです。が、問題が残りました。
牛屋村の鮭漁には、極貧の人たちがいたのです。すぐに〆切を取り払うと、この人たちの生活が成り立たない。ということで、仲裁の郷宿主人二人が救済策を考えました。
この人たちの〆切場所はわずかで、上流の鮭漁に影響しない。だから、今年一年だけは〆切を認めたらどうか。それを、原告代表の小見村庄屋甲太郎に、現地を見てもらって決めてもらおうというのが、写真の文書の内容です。
仲裁人は、いつも、双方への目配りが欠かせない。これも江戸時代のセーフティネットの一つでしょう。
(原文と解説は歴史館に展示、又は、下の本紙QRから)
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