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古文書でタイムスリップ

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新潟県関川村

■「江戸時代わが村の暮らし」(33)
辰田新村と打上村の土地争い
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)

◇大水で流された田畑
辰田新村と打上村の田畑が大水で流されて、大きな水たまりになってしまいました。享保(きょほう)九(一七二四)年のことです。
それから八十年、長い年月の間に、水たまりに土砂が積もり、土地が現れました。両村は、乾いてきたその土地を分け合うことにしたようです。
しかし、分け方で話し合いがもめたのでしょう。辰田新村が訴訟を起こしました。訴えられたのは、打上村を兼任していた勝蔵村の三役です。

◇白河藩への訴え
訴え出た先は、白河藩(福島県白河市)の奉行所です。当時、辰田新村は幕府領でしたが、打上村も勝蔵村も白河藩領でした。
訴えは受理され、勝蔵村の三役へ、答弁書を持って奉行所に出頭するよう命令が出ました。遠路大変なことです。
そこで、出頭期限が来る前に、両村で仲裁人を立てて話合い、示談にすることになりました。これは、当時の裁判の常套(じょうとう)手段です。奉行所もそれを望みます。

◇和解合意の内容
仲裁人は、両村の古い文書を調べ、大水以前の両村の田畑の位置と面積を明らかにします。その上で、同じ位置関係と面積割合で新しい土地を案分する、ということで両村合意に導きます。
文化三(一八〇六)年二月、何とか示談が成立し、済口證文(すみくちしょうもん)(合意書)を奉行所に提出しました(写真は冒頭部分)。※本紙参照
仲裁人の名前は書いてありませんが、幕府領からは小見村庄屋、白河藩領からは桃川村庄屋が、その任に当たったと思われます。岩船郡内の白河藩領は桃川組に入っていたからです。

◇御上(おかみ)の御威光(ごいこう)
最初から案分すればよかったのにと思いますが、奉行所の意向を受けた仲裁人がいたからこそ和解合意ができたのでしょう。
だから、済口證文の最後には、必ず、「これひとえに御威光のお陰、有難きしあわせ」と奉行所への感謝の言葉で締めくくります。

※原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQR(本紙参照)から

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