■「江戸時代わが村の暮らし」(34)
辰田新村と小見村の境はどこだ?
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
◇辰田新村の勘違い
荒川を挟んだ辰田新村と小見村の境はどこでしょう。川の真ん中に線を引けばいいだろうと思いますが、そう簡単ではありません。
中島があって、そこにも持ち分があるはずと思った辰田新村は、砂地を畑にしました。
小見村から苦情が出たのでしょう。享保元(一七一六)年、当時の領主館林藩の海老江代官所で両村対決。小見村から証拠の文書を示され、辰田新村は、勘違いでしたとあっさり謝罪しています(写真の文書)。
◇十九年前の取り決め
証拠の文書というのは、十九年以上も前、大水のため荒川の流路が辰田新村側へ大きく南下したときのものでした。
その際に、南下した荒川本流の南岸辺から南側が辰田新村分、北側の中島と河川敷は小見村分と取り決めたのです。
証拠を示されて、一件落着。辰田新村は、中島の畑から撤退。今後一切立ち入りません、草木一本刈り取りませんと約束しています。
とはいえ、十九年前の取決めは、辰田新村に不利なように見えます(図)。なぜ、こんな取決めをしたのでしょうか。
◇勘違いした訳
実は、大水の後、小見村は当時の領主村上藩に頼んで、村下の河川敷に堀川を掘ったのです。本流が遠くなったための用水路だったのでしょう。
下関村や辰田新村は、荒川本流が南下したことで洪水の危険にさらされました。それで、小見村の堀川に、南下した本流の水の半分を流してほしいと願い出たのです。願いが通り、結果、大きな中島ができました。
中島の場所は、大水前は本流の南側で、辰田新村の持ち分があったのでしょう。それを、堀川分流の際の交換条件として放棄したようなのです。辰田新村はそのことをすっかり忘れていたのでした。
◇文書保管の大切さ
辰田新村は、二度と間違わないためにと、村の水防土手から本流の南岸辺までの距離を四ヶ所も計測して、記録した文書も提出しました。その記録も平田家に残っています。
庄屋の家は、こんな時のために古い文書をしっかりと保管していたのですね。
(原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQRから)
※詳しくは、本紙またはPDF版を参照してください。
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