■「江戸時代わが村の暮らし」(39)
不作の年は、入会山(いりあいやま)の木が頼り
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)
◇入会山
村々が農業を営む上で、入会山(いりあいやま)は欠かせない場所でした。日常生活のための燃料は勿論、牛馬の飼料や田畑の肥料もそこから得ていました。樹木だけでなく、青草や落葉も重要な資源だったのです。
入会山は、村の共同利用地です。荒らさないように決まりを定め、計画的に利用していました。
とりわけ、滝原、上野山、小見三ヶ村の入会山は、農業用水を引く川の水源涵養地(すいげんかんようち)でしたから、むやみに木を切ることのないよう厳重に保護していました。
◇不作の年
文化四(一八〇七)年は、米が不作の年でした。小規模農家は、生活困窮(こんきゅう)に陥りました。
それで、やむなく三ヶ村の入会山の木を伐って、薪(まき)にして売り出すことを願い出ました。願い出たのは三ヶ村の木伐り人十七名です。
条件として、「薪売り用は申すに及ばず焚(た)き用の分も、二分通り差し出すつもり」とあります。
焚(た)き用とは自家用のことでしょうか。二分通りとは、二割を三ヶ村に差し出すという意味のようです。
翌年二月、三ヶ村はこの願いを承諾しました。それを受けて、十七人と三ヶ村の村役人は次のような取り決めを結びました。(写真の文書 ※本紙参照)
◇川流し
「伐り出した木のうち、引ノ沢を川流しする分についても二分通り差し出すこと」
「もし、川流しの木が用水の堰(せき)に当たって破損させてしまったら、三ヶ村中から全員人足に出て修復し、用水の支障が出ないようにすること」
臨時にせき止めた川の水を一挙に流して、木を下流に押し流す川流しは、山で伐った木を運び出す方法としてよく行われていました。
全員が人足に出るということは、収益は村人みんなに分配するからでしょう。
◇山は拠り所
文書の終末に「二割を銭で差し出すのは、以前からのやり方だ」とあります。
不作凶作で困ったときには、入会山の木を頼りにして、そこからの収益を困窮農民と村とで八対二で分け合う仕来(しきた)りだったのでしょう。
入会山は、困ったときの大事な拠(よ)り所であったわけです。
(原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQR(本紙参照)から)
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