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古文書でタイムスリップ

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新潟県関川村

■「江戸時代わが村の暮らし」(44)
鮭川漁・牛屋村との争い(3)
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)

◇今回は、入念な準備で
前回紹介した文化十二年の争いは、結局うやむやのまま終わってしまったようです。小見湯沢二村だけの訴えでは、効き目が弱かったのでしょう。
それで三年後の文政元(一八一八)年、今度は荒川流域の村々で、連合して訴え出ました。平林、葛籠山、川部、小岩内、貝附、大島、桂、高田、平内新、小見、上野山、滝原、下関、上関、湯沢、下川口、大内渕、片貝の十八ヵ村です。
下相談をして現地もよく調べ、証拠もつかんだのでしょう。相手には、牛屋村だけでなく金屋村も入れています

◇牛屋村、まいった‼
これで牛屋村は、ぐうの音も出なかったようです。代官所の取り調べが始まる前に、赤谷村三助と中新田村金右衛門を仲裁人に立てて和睦。こんなふうに言っています。
「〆切持ち網漁は、二十四年前の寛政六年に禁止され、その時に、以後この漁はやらないと約束証文も出しました。
ところが、それから年月が経ったもので、それを忘れて小規模の漁師共が禁止の〆切漁を始めてしまったのです。庄屋以下村役人たちも、漁場の見回りを怠り放置していました。金屋村も同様です。
〆切は残さず取り払います。以後、決してやりません。」
小規模漁師のせいにしていますが、三年前のあの強弁を思えば、村役人も承知していたのではと思えてきます。
ともあれ、この件はこれでめでたしめでたしです。
とは言え、この後も、牛屋金屋に限らず他の村々でも、〆切漁による争いは度々起きています。漁獲の確実な漁だったからでしょう。

◇文書に平太郎の名が、ない!?
ところで、今回の約束証文(写真※本紙参照)には、小見村庄屋代として重兵衛が署名していて、肝心の平太郎の名がありません。
この前年、年貢米を江戸に送り出す公務のため、平太郎は海老江湊に詰めていました。会計も担当していたらしく、江戸へ行く庄屋仲間に、費用の前金を渡したりしています。
それで翌年も多忙で、和睦の交渉に関わる余裕がなかったのかもしれません。
あるいはまた、この二年後には病死していますから、もしかすると多忙が重なって療養中だったのかもしれません。
庄屋代重兵衛の署名から、様々なことが想像されます。

(原文と解説は歴史館に展示、又は、下の本紙QRから)

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