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古文書でタイムスリップ

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新潟県関川村

■「江戸時代わが村の暮らし」(46)
平内新村と大島村の鮭漁場争い
〜「歴史とみちの館」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺伸栄)

◇荒川の鮭漁場
話はまた鮭川漁に戻ります。
村上藩の三面川は毎年入札による一括請負でしたが、幕府領の関川郷は違いました。
荒川を細かく区切り、それぞれに瀬主がいて、漁業権を持っていました。代々の既得権で譲渡も可能でした。
平内新村の市三郎は、雑貝川という名の漁場の瀬主でした。その漁場の南側に、大島村の六人が入って来て不当に漁をしていると訴え出ました。寛政九(一七九七)年のことです。

◇大水による漁場の変化
大島村側の言い分はこうです。「その場所は昔から大島村の漁場で漁業税も納めていた。ところが、四十年ほど前に川の流れが変わり、漁場がなくなって休漁にしてきた。それが、近年になって元の流れに戻ったので漁を再開したのだ。」
洪水で荒川の流れが変わることはよくあることです。実は、この二十一年前にも同じ争いがあって、その文書も残っています。その頃からずっと、いざこざが繰り返されてきたようです。

◇証拠文書
しかし、どうやら今回は決着がついた模様です。
雑貝川漁場は、元は小見村の甲太郎の親のもので、市三郎に瀬主を譲ったものでした。
それで、甲太郎は証拠の文書類を探して提示したのです。その中には、八十三年も前の正徳四(一七一四)年の鮭漁場を記した文書がありました。当時の代官所の印まで押してあります。
そこに大島村の漁場はないのですから、四十年前云々の主張は却下だったでしょう。

◇和解は穏やかに
とはいえ、無下にしないのが江戸時代らしいところです。久保村の半右衛門と下関村の半十郎が仲介に入って、和解合意しています(写真の文書※本紙参照)。こんな内容です。
(1)大島村は漁場がなくて困っているのだから、南側の枝川(分流)の岸だけは大島村の漁場にして、その代わり市三郎に毎年銭二貫文を払うこと。
(2)大島村は去年から雑貝川漁場に入っているので、その分として金一歩と銭二貫文を市三郎に払うこと。
(3)今後、もし南側の枝川が本流になったら、大島村は手を出さず、その分の銭二貫文は払わなくてよいこと。
仲裁はいつも、双方の顔を立てて穏やかに解決です。

※原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQRから(本紙参照)

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