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チョッと知っ得 区内の文化財 一石橋迷子(まいご)しらせ石標(せきひょう)

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東京都中央区

■一石橋迷子(まいご)しらせ石標(せきひょう)
都指定有形文化財 歴史資料
八重洲一丁目11番先

中央区の北に位置する神田川は、台東区との区境である左衛門橋(さえもんばし)から浅草橋を経て隅田川河口の柳橋まで約500メートルの区域を流れています。なお、左衛門橋から先の神田川水系をさかのぼって行くと、最終的に三鷹市(井の頭池)の水源に至ります(延長約25km)。
一方、中央区内を横断して蛇行するように流れる日本橋川は、「日本橋」を冠しているため、一石橋から西河岸橋・日本橋・江戸橋を経て、鎧橋・茅場橋・湊橋の下を流れて隅田川河口の豊海橋に至る河川だと思いがちです。しかし、現在は一石橋先の上流から河川名が変わることなく、千代田区との区境に架かる3つの「ときわばし」(常盤橋〈大正15年架橋〉・常磐橋〈明治10年改架〉・新常盤橋〈昭和63年改架〉)を経て北西方向へとさかのぼり、三崎橋(千代田区三崎町)先の神田川に合流するまでが日本橋川となっています(延長約4.8km)。
ちなみに、昭和39年(1964)の河川法改正前までは、三崎橋から一石橋までの堀川を外堀(外堀川)と称しており、さらに昭和20年代の埋め立て前までは一石橋の南西方向(現在の外堀通りに沿って西側)にも外堀川が流れていました。
特に、江戸時代の一石橋は、江戸城の外堀と日本橋川との分流点に位置していたため、橋上からの眺めも素晴らしく八つの橋(同橋を含めて日本橋・江戸橋・常磐橋・呉服橋・鍛冶橋・銭瓶橋(ぜにがめばし)・道三橋(どうさんばし))を眼中に収め得る橋としても知られていました。他方で、一石橋はすぐ東に人々の往来が激しい日本橋が架かり、江戸を代表する大店が軒を連ねる東海道沿いの通(とおり)一丁目(現在の日本橋一丁目)などの繁華街にも近い場所でもありました。今回の文化財は、こうした一石橋の地理的・地域的特性を物語る江戸時代の石標です。
一石橋南西の橋詰に立つ「一石橋迷子しらせ石標」は、読んでその名が示す通り、迷子(尋ね人)を知らせる告知用に建てられました。正面には「満(ま)よひ子(ご)の志(し)るべ(当初は朱を入れた文字)」と陰刻(下部の「不」字形記号は明治期の几号水準点(きごうすいじゅんてん))された花崗岩(かこうがん)製の角柱(高さ約161cm・幅約36cm・奥行き約34.5cm)で、台石(高さ約13cm・幅約70cm・奥行き約69cm)上に据えられています。向かって右側面に「志(し)らす類方(るかた)」と左側面に「たづぬる方(かた)」の陰刻を施し、各側面上部には庇(ひさし)(縦約4.5cm・横約26.5cm・奥行き約2cm)を付けた方形のくぼみ(縦約30.5cm・横約22.5cm・深さ約2.5cm)が設けられています。さらに、裏面には「安政四丁巳(ひのとみ)年二月御願濟建之(おねがいずみこれをたつ)西河岸町(にしがしちょう)」と陰刻されており、『撰要永久録(せんようえいきゅうろく)』(町名主高野家の記録)などから西河岸町(現在の八重洲・日本橋各一丁目)の家主17人の惣代(そうだい)・重兵衛(じゅうべえ)(他に喜八(きはち)・傳兵衛(でんべえ)の2名)が石標建立の願書を南町奉行所に提出・許可され、安政4年(1857)2月に建立したことが判明しています。
また、願書によれば、たづぬる方には迷子の親が「迷子の詳細(名前・年頃・面体・格好・衣類・家主の名前・町名)」を記した紙を貼り置き、しらする方には迷子を留め置く町内から「町名・迷子の名前・年頃・面体」などを記した紙を貼り置いたとあります。情報網が発達していない江戸時代には、親が子を見失って迷子になったら最後、生き別れになることも少なくありませんでした。そして、町内で迷子と分かれば月行事(がちぎょうじ)(月交代の町政当番)が責任をもって保護し、親に引き渡すまで町入用から出費して町内で養育する必要がありました。
なお、西河岸町の建立願書には「迷子之儀兎角所在不相分町内之厄介(まいごのぎとかくしょざいあいわからずちょうないのやっかい)ニ相成候(あいなりそうろう)も有之不便(ふべんこれあり)ニ付(つき)」の一文が記されており、増え続ける迷子とその保護に苦慮している町の様子が伝わってきます。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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