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チョッと知っ得!区内の文化財

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東京都中央区

■佃島旧名主森家及び関係資料

◇区民有形文化財 歴史資料
新富一丁目13番14号 郷土資料館

佃一丁目の中心部(1番~10番街区)は、江戸時代に埋め立て造成された「佃島」が原形となっています。当地は、摂津国(せっつのくに)西成郡(現在の大阪市西淀川区)在住の漁師たちが江戸へ下り、正保元年(1644)に幕府から拝領した鉄砲洲(現在の湊・明石町)沖の干潟100間(約181メートル)四方を埋め立てて築いたといわれています。
なお、正保元年の築島から名主制度が廃止される明治2年(1869)まで、佃島の名主は初代(佃忠兵衛〔ちゅうべえ〕)から13代(森幸右衛門〔こうえもん〕)続く世襲名主として襲職されてきました。
その概要については、築地本願寺境内に立つ「佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔」(令和2年2月21日号の記事)の中で、江戸時代前期に行われた佃島の造成や本願寺の築地移転・再興に尽力した佃島門徒の解説とともに紹介しました。
今回の文化財は、佃島の町政を取り仕切ってきた名主家伝来の貴重な歴史資料です。当該資料は、初代名主佃忠兵衛から連なる血族・世襲名主の家柄である森家に代々受け継がれてきたもので、江戸時代中期から昭和中期までの資料群(69件)となっています。
主な資料を挙げると、当家の歴史を裏付ける森家系譜・先祖書上(かきあげ)・先祖由緒覚書、江戸時代の土地利用の様相が分かる佃島売券(ばいけん)絵図・深川佃町(つくだちょう)絵図、築地本願寺境内の墓碑(「篤行院釋久西居士」〔「佃島初代名主佃忠兵衛報恩塔」〕)建立由緒書・同墓碑に関する東京府知事宛の史跡指定申請書、14代目(森幸右衛門改め森謹一郎〔きんいちろう〕)による森家・佃島に関する研究資料、方形の角印鑑「森家之印」など多岐にわたります。さらには、江戸近辺の海川での漁業勝手に関するお墨付きとして知られる「網引御免〔あみびきごめん〕証文」(慶長18年〔1613〕の原資料)を撮影した記念の古写真をはじめ、佃島門徒による本願寺内の寺地使用に関する京都本山の許可状「地所取斗之義(じしょとりはからいのぎ)書状」(文政9年〔1826〕9月カ)の断簡(だんかん)なども現存しており、歴史的にも極めて重要かつ希少性の高い資料類が含まれています。
既往の研究では、佃島の開基や名主の名に森孫右衛門(まごえもん)を挙げるケースが多くみられますが、摂津国佃村に本拠を置く孫右衛門(本国佃村で死没)は江戸に年々出府する身であったため、江戸佃島の長であり島内の行政事務一切をつかさどる名主「佃忠兵衛」が町役人として極めて重要な役割を担いました。中でも、初代名主の佃忠兵衛は一族から佃島の開祖(元祖)として称えられてきた人物であり、初代に連なる血族の森家に名主伝来の資料が継承されてきたという歴史的な経緯があります。
なお、初代名主佃忠兵衛は、森九左衛門(くざえもん)(孫右衛門の実弟で日本橋の魚問屋〔うおどいや〕商人)の娘を妻に迎えており、6代目(佃忠兵衛)の後の7代目(森幸右衛門)から継嗣(けいし)不在で絶家の憂き目に遭った九左衛門家に代わって家康下賜とされる「森」の姓を引き継ぎ、以来今日まで名主家の血脈が連綿と受け継がれてきました。また、江戸時代以来、代々佃島に居住してきた名主の森家は、明治後期に至って14代目(森謹一郎)の時に島外へと転出しており、政府の官吏(かんり)(文官)を務めた記録類も残されています。
ちなみに、現在の佃一丁目には、旧名主の森家居住地に祭られていた屋敷神(稲荷神)が継承されており、旧地所の一角(佃一丁目4番4号)に「森稲荷神社」として鎮座しています。
佃島旧名主の森家に伝来してきた本資料群は、佃島の歴史はもとより、同島の名主に関する極めて信ぴょう性の高い学術的価値を有する歴史資料となっています。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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