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チョッと知っ得 区内の文化財 名水白木屋(めいすいしろきや)の井戸

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東京都中央区

■名水白木屋の井戸
都指定文化財 旧跡
日本橋一丁目4番

日本で最初の百貨店といえば、明治37年(1904)に欧米のデパートメント・ストアを手本として、近代的な大型小売業へと業態を転換した駿河町(するがちょう)(現在の日本橋室町)の三越呉服店(現在の三越の前身)が良く知られています。続いて区内(旧日本橋区)では、大正8年(1919)に通(とおり)一丁目(現在の日本橋一丁目)の白木屋呉服店が百貨店へと転身を遂げています。江戸時代に日本橋で開業した両大店(おおだな)は、明治末年から大正初期に商業形態・経営改革を進め、関東大震災後の昭和初期に次々と開店していく百貨店の先駆けとなりました。今ではこうした歴史性を持つ日本橋室町や日本橋一丁目の場所に、都心型の新しい複合商業施設(「COREDO(コレド)」)が展開し、歴史と伝統を兼ね備えた活気のある商業地としてさらなるにぎわいをもたらしています。
なお、白木屋呉服店は、昭和30年代の合併を経て東急百貨店日本橋店(平成11年閉店)となり、跡地には平成16年(2004)にCOREDO日本橋がオープンして現在に至っています。時代の移り変わりとともに店構えや商業展開などは大きく変化しましたが、当該地において大正7年(1918)に東京府の「史蹟(しせき)」指定を受けた文化財(江戸時代の白木屋時代からの井戸)が今日にも引き継がれて東京都指定の旧跡に位置づけられています。
江戸の三大呉服店(越後屋・白木屋・大丸屋)に数えられるまでに発展した白木屋は、近江国(おうみのくに)(現在の滋賀県)長浜出身の大村彦太郎(白木屋の初代)が京都で材木商を営んだ後、寛文2年(1662)に江戸へ下って小間物商「白木屋」(当初の店は通二丁目)を開いたことに始まります。3年後には通一丁目に移転して店舗を拡大し、商(あきな)い品も小間物類から呉服物類へと増えていきました。二代目彦太郎の時代には、さらなる白木屋の拡大発展(土地家屋の購入や店舗の拡大、取扱商品の増加〈羽二重地(はぶたえじ)・縮緬(ちりめん)・毛氈(もうせん)・紗(しゃ)・綾(あや)・晒木綿(さらしもめん)・郡内縞(ぐんないじま)・絹織物など〉)が図られ、家業もゆるぎないものとなりました。
ところで、二代目彦太郎が店主(貞享元年〈1684〉~正徳元年〈1711〉)を務めた頃の江戸城下には、市街への給水として神田上水や玉川上水をはじめ、本所・三田・青山・千川(せんかわ)の四上水(享保7年〈1722〉廃止)が開設されましたが、上水井戸だけでは飲料水の確保は十分ではありませんでした。特に、江戸城下町の建設に伴って埋め立て造成された下町地域は、かつてその大半が浅瀬や海であったため、10間(約18m)にも満たない浅い深度の掘井戸(ほりいど)の水では塩気を帯びて飲料水には使えませんでした。
こうした中、日本橋の白木屋二代目は、正徳元年(1711)から良質な水を求めて井戸職人による鑿井(さくせい)を進め、その難作業は2年に及びました。伝承によれば、手応えのあった鋤(すき)(鍬(すき))の先を掘り出したところ観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の尊像が出現し、間もなく地下水が自噴(じふん)した(七丈五尺〈約22.7m〉の深度まで掘ったとも)といわれています。地軸を貫くことで加圧された清水が湧き出た白木屋の井戸水(掘り抜き井戸)は、尊像の出現譚(しゅつげんたん)と相まって飲料水に適した「白木名水(霊水)」として評判になりました。また、越前国(えちぜんのくに)福井藩主が薬を煎(せん)じる水として用いたところ効験で病が快癒(かいゆ)したことも世に広まり、諸大名の御膳(ごぜん)や点茶(てんちゃ)に供する名水としても数多く求められました。さらに、江戸に入府した朝鮮通信使一行が白木屋へ立ち寄った際、井戸掘削の篤行(とっこう)・博愛とともに、その甘泉(かんせん)なることを称えて撰文(せんぶん)(井筒に鏤刻(るこく)した撰文は改鋳(かいちゅう)を経て関東大震災で焼失)したといわれています。
旧跡指定地に白木屋の井戸は現存していませんが、名水の名を刻む黒御影の石碑が在りし日の痕跡として立ち、伝説の尊像も浅草寺境内の淡島堂(あわしまどう)に遷座(せんざ)(「白木聖観世音菩薩」)して歴史を伝えています。

中央区教育委員会
学芸員 増山一成

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