■三浦按針(あんじん)遺跡
都指定文化財 旧跡
日本橋室町一丁目10番8号(記念碑建立地)
過去の時代において人類が残した生活・活動などの痕跡を残す(あるいは旧態を推定し得る)まとまった場所(範囲)のことを「遺跡」と呼んでいます。また、遺跡の中に残存する古い構築物や地面に残された切り離せない痕跡などを指して「遺構」と称し、さらに当地から移動可能な出土したモノのことを「遺物」と呼んでいます。
遺跡の名称が用いられた区内の都指定文化財では、江戸時代初期に活躍した外国人の住居跡に関わる「三浦按針遺跡」があります。当遺跡については、遺構の原形が保たれているものではなく、遺物なども確認されていませんが、歴史を理解する上で価値を有し、かつ旧態を推定し得る場所として位置付けられているものです。
なお、遺跡地はかつて安針町(あんじんちょう)(江戸時代から昭和7年「1932]までの旧町名)と呼ばれていた町屋敷(現在の按針通りに沿った東西に続く両側町で、日本橋室町一丁目9・10番の各一部と日本橋本町一丁目1・2番の各一部を含む範囲)の一角に当たると推定されています。また、文化財名称に冠されている三浦按針の人名ですが、これは日本に初めて来航したイギリス人といわれているウィリアム・アダムス(William Adams[1564~1620])の日本名(古記録などでは「安仁」「安信」「安針」などの表記)です。
江戸時代初期に来航したウィリアム・アダムスについてひもといてみると、その発端はアジアへの遠征航海・貿易などを目的とするオランダのハーゲン船団の航海士(水先案内)として乗船(当初は旗艦ホープ号に乗船し、途中でリーフデ号に配置転換)したことから始まります。5隻編成のハーゲン船団一行は1598年6月にロッテルダムを出航して大西洋を南下したものの、難所のマゼラン海峡を横断した後に四散してしまい、残った2隻(ホープ号とリーフデ号)は日本への針路をとって一路太平洋の航海をすることになりました。しかし、ホープ号は太平洋上で消息不明となり、約2年にわたる太平洋横断航海の末にリーフデ号1隻が、慶長5年3月(1600年4月)に豊後国(ぶんごのくに)の海岸(現在の大分県臼杵市(うすきし)佐志生(さしう)付近と推定される)へとたどり着いたと伝えられています。
豊後に到着した異国船の報告を受けた徳川家康は、すぐさま乗組員に対して五大老の筆頭として政務を執る大坂城への出頭命令を出し、数少ない生存船員(船長を含めて20人にも満たない乗組員)の中で、船長代理のアダムスと同行船員(リーフデ号に乗船したオランダ人のヤン・ヨーステンといわれている)が接見に向かいました。繰り返し行われた尋問の過程で家康から信任を得ることとなり、処罰を受けることなく解放されました(リーフデ号の乗組員にも寛大な措置がとられた)が、帰国を願い出るアダムスに対して家康はこれを認めずに忠誠を求めて寵遇(ちょうぐう)しました。アダムスは家康から江戸の日本橋に居宅を与えられ(旧町名「安針町」の由来はこれにちなむ)、相模国三浦郡逸見(へみ)村(現在の横須賀市西逸見町(にしへみちょう)・東逸見町(ひがしへみちょう)の辺り)には250石(こく)の知行地が支給されました(日本名「三浦按針」は領地の三浦と舵手(だしゅ)を意味する按針に由来)。また、ヤン・ヨーステンにも長崎と江戸に居宅(現在の千代田区丸の内二丁目の堀端に当たる旧地名「八代洲(やよす)河岸」の由来は彼の居宅地にちなむ)を与えて50人扶持(ぶち)を支給するなど、外国人としては破格の旗本扱いで登用されています。なお、リーフデ号到着から半年後の関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)の開幕後もアダムスを外交顧問として重用し、アダムスは造船や航海技術、幾何学や数学などの教授に当たり、平戸を拠点とするオランダ・イギリス商館の業務や朱印船貿易(東南アジア各地)なども行いました。現在、日本橋の屋敷跡付近にはアダムスの功績を刻んだ記念碑が建立(昭和5年建立の石碑を戦後再建)されています。
中央区教育委員会
学芸員
増山一成
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