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特集 江戸のメディア王 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)をたどる 1

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東京都中央区

令和7年1月放送開始の、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)の主人公・蔦屋重三郎(蔦重)は中央区にゆかりのある人物です。本特集では、出版者としての蔦重の手腕や、区内の関連スポットなどを紹介します。蔦重のことを知り、ゆかりの地を巡ってみませんか。

■~蔦重には人を集めてくる広告的な発想があったんですね~
蔦屋重三郎研究の第一人者 鈴木俊幸氏にお話を伺いました

Q 後世の人々から「江戸のメディア王」と呼ばれる蔦屋重三郎(以下、蔦重)。彼が活躍した江戸は、当時どんなまちだったのですか?
18世紀後半ごろの江戸は、長年の上方文化の影響・支配から脱却し、独自の文化圏を構築しつつありました。その一つは食。野田のしょうゆといった調味料や近郊野菜、江戸湾の豊富な魚などの自前の食材が安定的に供給され、調理する技術が生まれました。もう一つは酒。伏見や灘から下ってくるものに匹敵するような良い酒を醸す技術が確立。食べ物と飲み物が安定してくると、「江戸っていいな」と思うんですよね。
それから、歌舞伎のスター誕生、江戸独自の荒事が確立した他、祭りなどの行事も盛んでした。学芸では徂徠学(そらいがく)。柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕えた儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱した学問が全国を席巻していく。また、浮世絵がフルカラーの印刷になって錦絵と称され、一番の江戸土産となりました。
そこで吹いた風のもう一つが経済。田沼意次(たぬまおきつぐ)の経済施策により、江戸のまちが経済的にも活性化し、どんどん上向いていきました。そのころ、武家の間でも和歌や漢詩などの文芸が流行し始め、武家の文化がまちの文化と融合。戯作(げさく)なども出てきて、おしゃれなもの、センスの良いものが生み出されてくる。他国に誇れる江戸の文化が花開き、江戸っ子としての自信と誇りに満ちた、まさに“アゲアゲ”の時代といえたのではないでしょうか。

Q 生誕の地、吉原で蔦重が手掛けた最初の仕事について教えてください
蔦重が生まれたのは絶頂期の江戸、吉原。寛延3年(1750年)、当時の吉原は最先端、最新流行の風が流れ、江戸の繁栄を象徴したようなまちでした。「かっこよく遊びたい」という人々が集まり、いろいろな見方はあるけれど「おしゃれなまち」として、ぜいたくな建築や調度品、一流の食べ物と酒、芸事を楽しむ人々でにぎわっていた。蔦重の感性は、新しいものに絶えずさらされている吉原のまちのこうした雰囲気を背景に磨かれていったのです。
安永(1772年〜)のころになると、吉原の経済・文化のけん引役は大名から魚河岸の旦那や札差(ふださし)など裕福な町人へ移行。そうした中、遊びのために散財できない人たちは次第に吉原から離れていきました。吉原に人の目を向け集客を図るために、華やかな行事を催し、江戸市中に魅力をアピール・発信していこうという中で、吉原で本屋を始めた蔦重は、その仕事に関与していった。彼の広告的発想センスと吉原側の思惑がうまい具合に合致したのか、蔦重自身が吉原を動かしたのかは分かりませんが、彼の出版業は吉原の洗練したイメージを売り込むような摺物(すりもの)を手掛けるところから始まりました。その後、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)が出版を継続できなくなった時、吉原から初めて出る「吉原細見(よしわらさいけん)(妓楼(ぎろう)や遊女のガイドブック)」を発刊。やり手なんでしょうね。これが大ヒットし、吉原の名物本屋として一目置かれる存在になって蔦重の名前が江戸中に響き渡っていったのです。

Q 成功をつかんだ蔦重は日本橋へ進出します。なぜこの地が選ばれたのでしょう?
天明3年(1783年)、通油町(とおりあぶらちょう)(現在の日本橋大伝馬町)に「耕書堂(こうしょどう)」を出店した蔦重。日本橋は江戸の本屋業界の中心地。そこに店を出すのはステータスであるし、吉原から来て、ど真ん中の日本橋に出店するのはビッグニュースでした。人を集めてくる広告的な発想がそこにあったんですね。同業者も多く取引がしやすい立地で、地代は割高なるも話題性と集客力は抜群。うまく回転すれば商売には絶好の土地なんですよね。そこでも蔦重は「おしゃれな店」というブランドイメージを固めていきました。江戸狂歌が流行すると、狂歌に関する摺物や本を蔦重が独占的に出版していきます。人気狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)を店の看板に掲げ、「私の作品も大田南畝の御用達であるこの店から出したい」という雰囲気を作り出していく、ここが蔦重のうまいところ。いかに店に人を集めて買っていってもらうか、営業力を高めるか、その一つの柱が出版だった、ということなんです。

Q 快進撃を続けた後、晩年にかけてどんな生涯を生きたのですか?
蔦重は、地方の農村部での知的欲求の高まりをいち早く察知して、寛政3年(1791年)には江戸の書物問屋に加入し、江戸以外のマーケットを開拓。山東京伝(さんとうきょうでん)の作品や、江戸発の地本(じほん)を地方へ向けて流通するアイデアをひらめきます。寛政期の厳しい取り締まりにより出版規制を受けるなど不遇が重なりましたが、逆境を逆手に躍進し、歌麿や写楽ら人気絵師たちをプロデュースするなど出版界に君臨し続けました。
その後の寛政9年(1797年)、蔦重は病により享年48歳でその生涯を終えています。
現代の中央区のビル群に18世紀当時の江戸の面影をみるのは難しいですが、蔦重が活躍した頃を想像しながらまちを散策するのもよいでしょう。

○鈴木俊幸氏
中央大学文学部教授。中央大学文学部、同大学大学院を経て現職。狂歌・戯作研究の一環として蔦屋重三郎の研究を始め、現在は江戸時代から明治時代前期までを対象として、書籍文化研究を広く行っている。主著に『蔦屋重三郎』(若草書房)、後に増補し『新版 蔦屋重三郎』(平凡社)他多数。

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