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特集 江戸のメディア王 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)をたどる 2

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東京都中央区

~歌麿・写楽を発掘した仕掛け人~

■日本橋・八丁堀・勝どき…蔦重ゆかりの地を巡る
○[蔦屋重三郎]耕書堂跡
天明3年(1783年)に蔦重が日本橋へ進出する際に「耕書堂」出店の地として選んだのが通油町(現在の町名…日本橋大伝馬町)です。現在その面影はなく、旧日光街道(大伝馬本町通り)沿いに案内板が設置されるのみとなっています。[所在地…日本橋大伝馬町13-8先]

○[山東京伝]ゆかりの地
蔦重と長年の間、深い交流関係にあった山東京伝。13歳頃に京橋へ転居後、浮世絵の技法を北尾重政(きたおしげまさ)に学び、黄表紙の画工・作者として活動しました。通称の「伝蔵」と「京橋」から文字をとり「京伝」の号を名乗りました。ちなみに「山東」とは江戸城紅葉山の東の居住地を意味します。

○[東洲斎写楽]の説明板
出自不明、活動期間10カ月の「謎の絵師」写楽。後年の考証から江戸八丁堀に住む徳島藩の能役者の斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)だったという説があります。当時の八丁堀は与力同心の屋敷地でした。亀島橋の橋詰には写楽に関する案内板が設置されています。[所在地…八丁堀2-30-18先]

○[十返舎一九]の墓碑
江戸に出て来た一九の居候先が、蔦重の拠点日本橋でした。彼の仕事を手伝いながら作品を次々に発表し続けました。勝どきにある東陽院の門前には、一九に関する石碑や文化財説明板があります。[所在地…勝どき4-12-9]

■「江戸のメディア王」蔦重ゆかりの作家たち
○蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(1750~1797) 版元・耕書堂店主
寛延3年(1750年)江戸の新吉原で生まれる。貸本・小売り主体の本屋を開業。吉原細見の自版に成功した後、天明3年(1783年)通油町(現在の日本橋大伝馬町)に進出して地本問屋「耕書堂」を立ち上げる。洒落本・黄表紙・浮世絵などの作家の発掘・育成とともに、人気作品の出版・販売の才に長け江戸の出版界の中心人物に昇りつめた。寛政9年(1797年)没。

○東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)(生没年不詳) 絵師
写楽が描いた作品は全て蔦重の元から版行。寛政6年(1794年)の10カ月間で約140点もの浮世絵を制作した謎の多い絵師。作品の大半は歌舞伎俳優の大きな顔や演技などの個性を強調して描いた「大首絵」と呼ばれる役者絵で、特に迫力ある初期の作品群の評価が高い。

○十返舎一九(じっぺんしゃいっく)(1765~1831) 戯作者(げさくしゃ)・絵師
駿河国(現在の静岡県)で浄瑠璃を執筆していた一九は、30歳頃に蔦重の元で居候(通油町の「耕書堂」)生活を開始。その文才と絵心を認められて黄表紙を出版して売れっ子作家となった。享和2年(1802年)の「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、以後21年間にわたって続編を刊行。

○喜多川歌麿(きたがわうたまろ)(1753~1806) 絵師
かつて蔦重の「耕書堂」に身を寄せ、狂歌絵本の作画を担っていた歌麿。蔦重の発案で美人画に大首絵の画法を採用した錦絵「婦女人相十品」を発表すると、作品は爆発的な人気を博した。歌麿は写楽とともに浮世絵師としての才能を蔦重に見い出されて大成した絵師の1人。

○山東京伝(さんとうきょうでん)(1761~1816) 戯作者・絵師
深川出身。養父の転居先だった京橋で浮世絵師・戯作者としての活動を開始。同時に吉原で蔦重との交流を重ねる。黄表紙・合巻・読本・滑稽本など多彩なジャンルで活躍。寛政の改革による出版統制を受けて彼が手掛けた洒落本が風紀を乱すものとして摘発の対象にもなった。京伝は現在の銀座一丁目で煙管(きせる)・紙たばこ入れの店を営んだ。

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