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チョッと知っ得!区内の文化財

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東京都中央区

■間新六(はざましんろく)供養塔
都指定文化財 旧跡
築地三丁目15番1号 築地本願寺境内

現在の築地三丁目15番街区一帯に寺域を有する築地本願寺は、明暦の大火(明暦3年[1657])後に埋め立て造成された当該地付近へ仮御堂を建立(万治元年[1658])し、以来今日まで367年にわたって築地の地で時を重ねてきました。長い歴史の中では、数々の複合的な災害に遭遇して伽藍(がらん)や寺地の変容を伴いましたが、そのたびに復旧・復興などを図りながら整備されてきました。
当寺の境内を散策してみると、点在する旧跡・史跡の多さなどからも歴史の重みを感じることができます。境内には築地の埋め立てと本願寺の移転再興に尽力した佃島初代名主・佃忠兵衛(つくだちゅうべえ)の報恩塔をはじめ、洒脱(しゃだつ)で叙情的な作品を数多く描いた江戸琳派(りんぱ)の代表的な絵師・酒井抱一(さかいほういつ)の墓、シーボルトに学んだ江戸後期の眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)の墓、そして元禄赤穂事件(本所の吉良邸討ち入り)で知られる旧浅野家家臣47人の一人・間新六の供養塔など、いくつもの歴史や事績を後世に伝えるように石塔が立ち並んでいます。
このうち「間新六供養塔」は、現在の明石町地区に拝領屋敷があった「浅野内匠頭(たくみのかみ)邸跡」(令和6年6月21日号に掲載)とともに、区内に存する元禄赤穂事件ゆかりの旧跡として位置付けられます。なお、都内の旧跡の中でも、当該事件(特定の歴史的事件)に関する指定文化財は群を抜いて多い存在となっています。
特によく知られている文化財には、浅野長矩(ながのり)が切腹した一関(いちのせき)藩田村(右京大夫(うきょうだゆう))家上屋敷跡地の都旧跡「浅野内匠頭切腹跡」(現在の港区新橋四丁目)や曹洞宗寺院・萬松山(ばんしょうざん)泉岳寺に建立されている国指定史跡「浅野長矩墓および赤穂義士墓」(現在の港区高輪二丁目)、旧浅野家家臣らが吉良義央(よしなか(ひさ))を討ち取るために押し入った吉良家上屋敷跡地の都旧跡「赤穂浪士元禄義挙の跡」(現在の墨田区両国三丁目)などがあります。さらに、浪士たちの分かち預け先(裁定後の切腹の地)となった大名四家の屋敷跡地(熊本藩細川家下屋敷「大石良雄外十六人忠烈の跡」〈現在の港区高輪一丁目〉・伊予(いよ)松山藩松平(久松)家中屋敷「大石主税(ちから)以下切腹跡」〈現在の港区三田二丁目〉・岡崎藩水野家中屋敷「水野監物(けんもつ)邸跡」〈現在の港区芝五丁目〉・長府(ちょうふ)藩毛利家上屋敷「毛利甲斐守(かいのかみ)邸跡」〈現在の港区六本木六丁目〉)なども都旧跡に指定されています。
築地本願寺の境内に墓碑が立つ間新六(1680~1703)は、赤穂藩主浅野長矩に仕えた父・間喜兵衛光延(きへえみつのぶ)の次男として生まれ、諱(いみな)(本名)を光風(みつかぜ)といいました。殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)事件から1年9カ月後に決行された吉良邸討ち入りの際には、父の喜兵衛光延と兄の十次郎光興(みつおき)とともに親子3人が揃って参加しています。吉良邸での新六は、父とともに裏門隊(24人)の一人として警備役を務めており、兄は表門隊(23人)の一人として吉良当人を邸内で最初に発見したとも伝えられています。また、首尾よく本懐を遂げた一行が主君の眠る泉岳寺へと引き揚げる途上で、新六は自身の供養を願って槍(やり)に書状と金子を結び付けて築地の本願寺へと投げ入れたとの伝承も残されています。
元禄16年(1703)2月4日、新六は預け先の毛利家上屋敷において切腹(父は預け先の細川家下屋敷、兄は水野家中屋敷で切腹)しましたが、新六の遺骸は姉婿の中堂又助(主家は老中・秋元但馬守(たじまのかみ)喬知(たかとも))の願い出によって引き渡され、築地の本願寺へと埋葬(後に泉岳寺にも戒名「刃摸唯剱信士」の墓碑建立)されました。現在、築地本願寺に残る新六の供養塔は、天保5年(1834)2月10日の火災で焼失した旧墓碑を子孫が再建(台座に刻銘あり)したものです。小松石と思われる自然石墓の正面には、新六の法名「歸真釋宗貞信士」と没年が刻まれており、往時の歴史を今に伝えています。

中央区教育委員会
学芸員
増山一成

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