■かつては宮廷料理!?お正月の味“おせち”の変遷
皆さんのお正月の味は何ですか。おせちを食べる方も多いのではないでしょうか。
実は、おせちを食べる文化が庶民に広がったのは江戸時代でした。もともと、平安時代の宮廷でお正月を含む5つの節「五節会(ごせちえ)」に、おせちの語源となる「御節供(おせちく)」と呼ばれるものを神様に供え、その後御節供はお祝いの料理として食べられていました。江戸時代に五節会が祝日となり、この習わしを庶民も取り入れ始めたことで、江戸の人々は年に5回、豪華な料理を食べるようになったと言われています。中でも、新年を迎える節日であるお正月は特に重要な日であるとされ、大みそかに正月料理を作り、お正月に家族で食べる習慣が完成しました。
江戸初期には、江戸では「食積(くいつみ)」、関西では「蓬莱(ほうらい)飾り」と呼ばれるものが正月料理として食べられたり、床の間に飾られたりしました。三方に松竹梅と白米を敷き、その上に餅や干し柿、昆布、伊勢海老などの縁起が良いとされる食べ物を載せたものです。しかし、硬いものが多かったせいか、やがて飾るだけになりました。江戸後期になると、食積と並行して、数の子やごまめ、黒豆などの祝い肴を詰めた重箱も作られました。食材ごとに意味が込められるようになって、これらの祝い肴は現代に続く定番メニューになりました。これが現在のおせちの原型であるといわれています。ちなみに、正月料理が「おせち」と呼ばれるようになったのは、百貨店が重箱入りの正月料理を販売するようになった第二次世界大戦後でした。
■江戸っ子も正月遊びで大はしゃぎ!
江戸では、正月遊びを楽しむ子どもが多かったといわれています。
男の子には凧揚げ、女の子には羽根つきやまりつきが人気でした。
◇凧は「タコ」か「イカ」か
江戸時代、凧揚げは大人から子どもまで楽しまれました。もともと、凧の形がイカに似ていることから「いかのぼり」と呼ばれ、人々は夢中になって凧を空に舞わせました。しかし、流行しすぎたため、凧が通行人の邪魔をしたり、大名の行列に落下する事故を引き起こしたりするなどの問題が頻発しました。困った幕府は、「いかのぼり禁止令」を出すに至りました。しかし、反発した庶民は「これはイカじゃなくてタコです」と、へ理屈を言って遊び続け、「いかのぼり」が「たこあげ」になったと言われています(諸説あり)。
◇羽根つきは蚊に刺されないおまじない!
羽根つきにはもともと厄払いの意味がありましたが、江戸時代には子どもを蚊から守るためのおまじないともされました。当時、蚊から広がる疫病が頻繁に流行し、人々は蚊に困っていたのです。羽根つきで飛ばす羽根が蚊を食べるトンボに似ていると考えられ、人々は正月に羽根つきをすることで夏に蚊に刺されることがないと信じました。
現代では、女の子が生まれた家では初正月に羽子板を贈る習慣があります。これは、もともと武家の習慣が江戸時代に一般の人々にも広まったものです。羽根についている玉は「むくろじ」という大木の種で、「無患子」と書きます。この習慣には、「子どもが病気にならないように」という大人たちの願いが込められているのです。
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