江戸時代は250年以上続き、さまざまな文化が発展。現在大河ドラマでも話題の蔦屋重三郎の生きた時代は、町人を中心に歌舞伎、浮世絵、そして出版と数多くの文化が育まれました。版元として多くの作家を見いだしたのが蔦重。現在の九段北や外神田に居を構えた曲亭馬琴(滝沢馬琴)もその一人でした。
■蔦屋重三郎とは何者か
後に「江戸のメディア王」とも呼ばれる蔦屋重三郎(通称「蔦重」)は、現在でいう出版社(版元)を営み、数多くの洒落本(主に遊所での遊びについて書かれたもので、話を楽しむだけでなく、実用的な遊び方指南や一種のガイド本として読まれたもの)、黄表紙(古典をもじり、洒落などを交えて風俗・世相を漫画的に描きつづったもの)、浮世絵などを企画・制作・販売しました。
1750年に吉原で生を受け、幼いころに両親が離婚し、喜多川氏の養子となりました。「蔦屋」は喜多川氏の屋号です。
1773年に吉原(当時は新吉原/現・台東区)で書店「書肆耕書堂(しょしこうしょどう)」を構えて小売りを始め、1774年に板株(はんかぶ)(本を刷る板木を所有し出版できる権利)を取得します。「書肆」というのは本を出版し、売る店のことで、当時は本屋仲間という株仲間(※)の構成員でなければ本を出版することができませんでした。
小売りから版元となった蔦重は、同年、初の刊行物『一目千本(ひとめせんぼん)』を発行しました。これは遊女の評判を木蓮やワサビなどの挿し花に例えて紹介するという一風変わった評判記でした。
1777年には書肆として独立し、数多くの戯作(げさく)(洒落本などの読み物の総称)や狂歌本を刊行しました。
※株仲間
当初は同業の問屋による集団で、株式所有で構成員と認められた。享保の改革では冥加金(上納金)を納める代わりに販売権独占が与えられた。意次の時代は積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制に重要な役割を果たした。
■江戸書肆街の中心地「日本橋通油町」
吉原で版元としての地盤を固めた蔦重は、版元の老舗ひしめく「日本橋通油町(とおりあぶらちょう)」(現・日本橋大伝馬町)に進出します。1783年に地本問屋(じほんどんや)を営んでいた丸屋小兵衛(まるやこへえ)の店と地本問屋株を取得すると、実父母も招き耕書堂を本拠としました。ここから数多くの著名作家を見いだしていきますが、徐々に出版業界にも暗雲が立ち込めます。
■築いた財産が半減の危機 松平定信の出版統制
18世紀後半の江戸文化の隆盛の背景には、当時の世相が関連しています。老中田沼意次は、吉宗時代の増税路線を転換し、商業を盛んにすることで財政を立て直そうとしました。株仲間を奨励するなど、商人から運上金を取り立てることで広く薄く課税をしたのもその一つです。江戸の町では貨幣経済が発展して豊かになり、商人を中心とした町人文化が発展します。江戸時代は庶民の識字率も高く、貸本屋で安価に本を貸りられたため読書は人気の娯楽でした。
しかし、天明の大飢饉(1782年〜1788年)などの影響で幕府が再び財政難に陥ると、次に実権を握った松平定信が吉宗の享保の改革をモデルに寛政の改革を行います。比較的自由であった出版業は厳しく取り締まられるようになり、1790年に出版統制令が出ると、翌年には山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本が風俗を乱したとして罰せられ、蔦重もその著書を出版した罪で過料の処罰を受けます。過料の金額は「蔦重の財産の半分」ともいわれています(諸説あり)。
■くじけない蔦重 美人画と役者絵
その後の蔦重は、錦絵に目を向けます。喜多川歌麿の美人画と謎の浮世絵師、東洲斎写楽の役者絵です。それぞれ市中で大変な人気を博したものの、出版業界は冬の時代となり、さまざまな活路を見いだした蔦重も不採算事業の売却など事業の立て直しを余儀なくされるのでした。
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