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江戸のメディア王「蔦屋重三郎」が見いだした江戸時代屈指の長編作家 曲亭馬琴(2)

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■区内に身を置いた読本作家 曲亭馬琴
蔦重が育てた作家の一人が『南総里見八犬伝』を書いたことで知られている曲亭馬琴です。
馬琴は、1793年から1836年まで区内に居を構え、執筆活動を行っていました。蔦重と親交のあった山東京伝に弟子入りを志願したものの、初めは断られます。後に親しく出入りすることを許され、1791年には当時流行していた壬生(みぶ)狂言を題材に、黄表紙『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を刊行し、戯作者として出発しました。
しかし、前述のとおりこの頃は出版物冬の時代。この年、山東京伝の洒落本が風俗を乱したとして罰せられ、京伝は戯作を控えることとなりました。馬琴は、1792年に刊行された京伝の黄表紙『実語教幼稚講釈(じつごきょうおさなこうしゃく)』の代作(本人に代わって作品を作ること)を手掛けて江戸の書肆に知られ、頭角を現していきます。
同年には、蔦重に見込まれ、手代(番頭と丁稚の間の職で商店で主に接客に当たり、経理や営業なども行う)として雇われることになりました。
1793年には、蔦重や京伝に勧められ、元飯田町中坂(現・九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下の履物商の婿となります。しかし、履物商売には一切興味を示さず、手習いを教えたり、長屋の家守(大家)をしたりして生計を立て、書を学びながら噺本・黄表紙の執筆を続けました。義母が亡くなると履物商をやめてしまい、1796年から本格的な創作活動を始めます。

◆馬琴年表
・1767(明和4)年 松平信成の用人、滝沢興義の五男として生まれる
・1790(寛政2)年 山東京伝に入門(弟子ではない)
・1791(寛政3)年 京伝門人大栄山人名義で『尽用而二分狂言』を刊行。手鎖50日の刑を受けた山東京伝に代わりいくつかの黄表紙を代作
・1792(寛政4)年 京伝を仲介として蔦谷重三郎の書肆耕書堂の手代となる
・1796(寛政8)年 耕書堂から初の読本『高尾舩字文』を刊行
・1807(文化4)年 読本『椿説弓張月』刊行(~1811年)
・1814(文化11)年 読本『南総里見八犬伝』刊行(~1842年)
・1816(文化13)年 山東京伝没
・1833(天保4)年 右目の視力が不調となる
・1839(天保10)年 視力が急激に衰える
・1840(天保11)年 視力を失う。以降は息子の嫁の路が代筆
・1848(嘉永元)年 81年の生涯を閉じる

■馬琴の活躍と蔦重の死
1796年に蔦重の耕書堂から刊行された読本『高尾舩字文(たかおせんじもん)』は馬琴の出世作となりました。しかし蔦重は体調を崩し、翌年1797年に47歳で没します。馬琴は『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』で、蔦重の死因は脚気と伝えています。脚気の原因はビタミンB1不足。「江戸わずらい」ともいわれたこの病は、都市部で白米中心の食生活になったことが要因とされています。一汁一菜が基本の食事で白米に偏った食生活がビタミンB1不足の原因になってしまったのでしょう。ちなみに明治時代には全国的に白米食が広がり、脚気は国民病になっていきます。

■口論をしながら共同制作馬琴と葛飾北斎
1807年から刊行した『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』では「富嶽三十六景」などで有名な葛飾北斎が挿絵を描きました。北斎は馬琴の家に一時居候していたこともあり、多くの作品を作りましたが、挿絵の内容で口論も絶えなかったといいます。読本の挿絵は従来とは異なり、複雑な内容を表現する適切な場面描写が求められたため、作者が下絵のイメージを描き、絵師がその下絵どおりに描くのが一般的でした。しかし、北斎は下絵どおりには描かず、アレンジしてしまうこともあったといいます。馬琴は、北斎が素直に描かないので、あらかじめ左右の人物を逆にした下絵を渡したこともあったとか。
口論をしながらも多くの作品を残した二人ですが、後年では確執があったといわれています。お互い優れた芸術家だからこそぶつかり合ってしまったのかもしれません。

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