本田家には、驚くほどたくさんの分野の資料が残っています。名主、医者、文人、新選組、自由民権運動、民俗などの資料は、7万5千点にのぼります。今号では、これらの貴重な資料のなかの「文人」に関する資料で、「書」と「印」についてご紹介します。
■今号で紹介する本田家の主な人物
江戸時代
9代 定 綏(さだやす)(号名:随庵(ずいあん))1761年〜1834年
10代 定 价(さだすけ)(号名:昻斎(ごうさい))1795年〜1833年
11代 定 済(さだなり)(号名:覚庵(かくあん))1814年〜1865年
12代 定 方(さだかた)(号名:東朔(とうさく))1848年〜1867年
明治・大正時代
13代 定 年(さだとし)(号名:退庵(たいあん))1853年〜1923年
昭和時代
14代 定 寿(さだじゅ)(号名:石庵(せきあん))1878年〜1935年
平成時代
15代 定 弘(さだお)(号名:谷庵(こくあん))1905年〜1990年
令和時代
16代 咊 夫(たかお)(号名:萩庵(しゅうあん))1929年〜
※文章中は号名(ペンネーム)のみ記載します。
■書家・文人の家
本田家9代随庵は、本田家中興の祖というべき人物で、漢方医の名医として著名で、文化人との交流がありました。10代昻斎は、1815年に市河米庵(いちかわべいあん)に入門しています。米庵は米庵流を築いた、江戸時代後期を代表する書家で、幕末三筆の一人です。書を書くためには四書五経(ししょごきょう)(※)や漢詩文などの漢籍の教養が必要となることから、本田家の人々は、高い知性と教養を得ていたことがわかります。
本田家には江戸時代からの漢籍が多く所蔵されています。代々にわたる文人文化が継承された背景には、一代では得られない知識の蓄積も大きく影響していると考えられます。
※ 四書五経とは儒教の経書の中で特に重要とされる四書(論語・大学・中庸・孟子)と五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)の総称。
幕末の11代覚庵は大書を手がけることが多く、特に幟(のぼり)の揮毫(きごう)は近隣各村に及びました。また、土方歳三や近藤勇も書を通じて交流があったと伝えられています。〔トピック〕
12代東朔は若くして亡くなりますが、残された書の筆致は繊細さを感じさせる美しいものです。
13代退庵は明治時代の書の衰退を嘆き、日本唯一の書の大学「書法専修義塾(しょほうせんしゅうぎじゅく)」を設立しました。東京国立博物館で書の展示を行ったのも退庵でした。
14代石庵は、退庵の義塾の代稽古のかたわら、篆刻(てんこく)(※)に道を見出し、精緻な印を生み出しました。
15代谷庵は、父石庵の影響もあり、篆刻界に身を置きます。
16代萩庵は米庵流を受け継ぎ、小説や詩作も行いました。
本田家は、代々途切れることなく現在も続く書家・文人の家なのです。
※揮毫とは、毛筆で文字や絵を書くこと。
※篆刻とは、石や木などの印材に文字を彫ること。
■〔トピック〕
土方歳三
幕末の11代覚庵は、新選組副長として知られる土方歳三の親戚にあたります。歳三は、覚庵の残した日記に度々登場します。歳三に書を教えたと伝わり、本田家を訪れる際、覚庵が教えることもあったと考えられます。
近藤勇
覚庵は、近藤勇から天然理心流の奉納額の揮毫依頼を受けます。日記に、にわとりの鳴く朝まで近藤勇が覚庵に相談したことが記されています。畳13枚分もある巨大な額でした。
■東京都指定有形文化財・旧本田家住宅復原工事の進捗
旧本田家住宅は、令和5年度に復原工事を始め、現在の耐震基準を満たすための基礎工事を完了し、木工事の「建て方(建物の構造材を組み立てること)」という工程に入りました。解体工事において現場は礎石を残したまま更地になりましたが、いよいよ当時の柱(一部傷んだものは取り替え)が戻ってきました。「建て方」の次は、屋根をかけるための工程になり、現場もにぎやかになってきます。この様子は、生涯学習課インスタグラムでお届けしています。ぜひ、フォローしてご覧ください。
問合せ:生涯学習課社会教育・文化芸術係
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