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本田家に伝わる文人文化と書と印(2)

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東京都国立市

■篆刻とは?
篆刻は石や木に文字を刻み、印を制作し、書に押印をして風情を高める役割を果たします。刻字と言い、文字を木に刻み鑑賞するものも篆刻です。文字は中国の青銅器時代に使われていた金石という象形文字を主に刻みます。白い和紙と黒い墨書のコントラストのなかに朱色の印影が加わることで、美しく典雅な世界が完成することから、書の発展とともに篆刻の世界も充実しました。

■本田家の印人
本田家は代々書家として活動するなかで、書の出来栄えをさらに高める役割を持つ印を制作しています。確認できる最古は、10代昻斎の印です。
神社の幟旗に揮毫するなど、力強い筆致の作品を残した11代覚庵の書には、「安寧楼(あんねいろう)」「覚庵」などの印が添えられています。印はもともと、書の余技として自分の作品の質を高めるためにつくられたことから、自分で制作したものもあると考えられます。
13代退庵の印は、現在復原工事中の旧本田家住宅のショサイからいくつか確認されました。退庵は書を活動の中心とし、その一環で印を制作していたと考えられます。
書も美麗な篆書(てんしょ)(※)の名手であった14代石庵は、父退庵の力強い書を前に、篆刻(てんこく)に道を見いだしたのではないかと、16代咊夫氏が証言されています。石庵が自由自在に文字を刻みつくり出した美しい印影は、ひとつの芸術作品です。「酔翁亭記(すいおうていき)」や「春夜宴桃李園序(しゅんやえんとうりえんじょ)」などの漢詩文を、いくつもの印に分けて刻み、そこから生み出される印影の風情を楽しむ、豊かな風流人の世界を残しました。篆刻界の著名人である初世中村蘭台(しゅせいなかむららんたい)、石井雙石(いしいそうせき)を始めとする交友は、子である谷庵にも引き継がれました。連作印は対外的にも評価を受けて表彰されています。
15代谷庵は、父の影響を受け、二世中村蘭台、石井雙石に師事し、篆刻を極めます。明治生まれの谷庵は旦那といった雰囲気を残し、実直な作品を求める人が後を絶ちませんでした。印は関頑亭(市内彫刻家)、山口瞳(作家)、吉行淳之介(作家)、田沼武能(写真家)、中原誠(棋士)、大橋巨泉(放送作家)などに渡っています。
※ 篆書とは、書体のルーツにあたる書体で、身近なものでは日本の紙幣の印影(印を押したもの)に使用されています。

■刻字(こくじ)
刻字は主に木に篆書を刻み鑑賞の対象とします。
15代谷庵は、谷保天満宮の雷に打たれた木に文字を刻み奉納した作品や、大國魂神社(府中市)、高安寺(府中市)に納めた作品、表札、本田家歴代の書などに刻みました。その数は小品から大作まで大変多く、欲しいと申し出た方には、謝礼なく分けていました。

■制作周辺
本田家篆刻資料の大きな特徴は、篆刻のための道具、印、印を押した印影、記録した冊子、配布先、交友先資料などが保存されていることです。
後世の人がわかるようにと配慮されていて、過去の歴代の貴重資料の重要性を認識するとともに、自分の作品もまた歴史のなかで必要となると考え、整理されたようです。几帳面に整えられた印譜(印を押した帳面)、制作の個数の記録、美しく整えられた一つひとつにその意思を感じます。

■市内の宝文堂印舗の眞田智成(さなだともなり)氏による所蔵篆刻作品の講評
本田家代々に伝わる所蔵篆刻作品が現代によみがえり、手に触れることができ感動しました。歴史的に価値のあるこれらの作品が長い間人の目に触れず眠っていたことに驚きです。守ってこられたご家族の想いが伝わります。
作風を拝見すると作者の交友関係をも垣間見ることができ、当時お互いに競い合い良い作品を残そうと、先人の印を観察し語り合った作家たちの会話も蘇るようです。
石庵の篆刻と思われる作は、徐三庚(じょさんこう)(※)の小篆の作風が感じられ、 徐三庚の作風を取り入れた初世中村蘭台の影響を色濃く感じられます。その後、趙ちょう之い謙けん(※)の作風を取り入れた石井雙石の影響を感じられる作風に幅を広げています。谷庵も同様に二世蘭台・石井雙石に師事され、日本の篆刻界の中心を歩まれていました。当時の「東方印選」という石井雙石監修作品集でも石庵の名は、上位に記されています。
※徐三庚、趙之謙はともに中国清代の篆刻家。

眞田 智成氏
第32回技能グランプリの「印章木口彫刻」の競技で、内閣総理大臣賞を受賞

問合せ:生涯学習課社会教育・文化芸術係

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