■渋沢栄一 理想のまち「田園調布」
◇渋沢がめざした「田園都市」とは
7月から新しい一万円札の顔となる渋沢栄一(1840-1931)。渋沢は晩年、緑あふれる都市-田園都市の発想に基づく理想のまちづくりの実現に着手します。重工業の発展などがもたらした、過密化した劣悪な都心部住環境を解消するため、友人実業家らと大正7(1918)年に田園都市(株)を設立(渋沢は相談役として参画)。高台で空気がきれい、地質が良好で樹木が多いなどといった、郊外住宅地の開発をめざしました。
◇なぜ田園調布が選ばれたのか
事業用地の買収は玉川や調布を中心に進められました。後に同心円放射プランで著名となる田園調布三丁目周辺は畑地が広がる農村地帯であったために、地元土地所有者の同意さえ得られれば、ゼロからまちづくりを進めることが可能だったのです。
◇どのようにまちづくりが行われたのか
田園調布駅を中心に広がる町並みや駅舎は、欧米の田園都市を視察し、田園都市(株)に取締役として入社した渋沢の子息、渋沢秀雄のアイデアを建築家の矢部金太郎が具体化する形で築かれました。こうして大正12(1923)年8月に田園調布の土地が売り出されます。直後に関東大震災に見舞われるものの、震災を契機に郊外の安全性が評価される幸運を得て売れ行きは好調でした。目黒蒲田電鉄が開通し都心へのアクセスが便利になったことも大きな要因の1つです。土地分譲にあたっては、「周りに迷惑となるような外観にしない」「美観を損なうような仕切り壁は設けない」「3階建て以下」「建物の敷地は宅地の5割以内」(『田園都市案内』より)などと取り決められ、緑化のため塀ではなく生け垣が設けられました。
◇渋沢の思い、今も
「田園調布」が誕生してから100年以上がたちますが、渋沢らが構想した理想のまちは、住民の方々の不断の努力により緑豊かな美観を保ちつつ、今日に至っています。
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