江戸・日本橋を出て甲州街道の最初の宿場として栄えた「内藤新宿」。宿場があった新宿通りとその周辺では、今も当時の文化や歴史を垣間見ることができます。散策を楽しみつつ、宿場町の情景に思いを馳(は)せてみませんか。
■内藤新宿とは?
江戸初期に整備された甲州街道は、第一の宿場町「高井戸宿」までの距離が遠かったため、元禄12年(1699年)、新たな宿場として開設。内藤という名がつくのは、信州高遠藩内藤家の屋敷(現在の新宿御苑)の一部等を幕府に返上させて宿場を開設したことに由来。江戸の重要な産業道路の役割を果たしていた甲州街道の宿場町だった内藤新宿は、宿場廃止や火災の危機を乗り越え、幕末まで繁栄が続きました。
(1)追分
江戸時代、新宿三丁目交差点付近は「新宿追分」と呼ばれ、青梅街道と甲州街道の分岐点でした。「追分」の名は、今もバスの停留所や交番の名称等にその名をとどめています。
(2)太宗(たいそう)寺(新宿2-9-2)
僧侶・太宗が開いた草庵「太宗庵」を前身とする寺院で、慶長元年(1596年)ごろに創建されました。信州高遠藩内藤家の菩提寺(ぼだいじ)であり、現在も内藤家の墓所があります。境内には、「内藤新宿のお閻魔(えんま)さん」として江戸の人々の信仰を集めた閻魔像が安置され、毎年1月・7月の15日・16日に特別開帳を行っています。
・境内には、夏目漱石が幼少期に遊んでいた銅造地蔵菩薩坐像も!
(3)玉川上水
玉川上水は承応2年(1653年)に造られ、多摩川の羽村堰(せき)〜四谷大木戸は地上を、その先の江戸府内は石や木でできた水道管を地下に通して配水していました。内藤新宿付近の上水路は昭和初期に暗渠(あんきょ)(地下水路)となりましたが、新宿御苑の中に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」が整備され、かつての流れをしのぶことができます。
・現在は、四季折々の草花・景色を楽しめます!
(4)新宿御苑(内藤町11)
「四谷荘」と呼ばれた内藤家の屋敷地がルーツ。当時の面影が残る園内の玉藻(たまも)池を中心とした玉川園は、江戸名園の一つとして知られていました。明治以降、四谷荘は牧畜園芸の改良を目的とした内藤新宿試験場、皇室庭園、そして現在の国民公園と、時代とともに役割を変えながら継承されています。
・「東京産業文化博覧会」が開催された昭和25年から、28年まで新宿御苑内に遊園地が運営されていました!
(5)多武峯(とうのみね)内藤神社(内藤町1)
元は内藤家の邸内社で、家祖・藤原鎌足の分霊を迎え入れるため、創建されたと伝わっています。境内には、内藤清成の愛馬にまつわる「駿馬塚(しゅんめづか)の碑」と、木造駿馬像が安置されている「駿馬堂」が建立されています。
▼駿馬(しゅんめ)の伝説
徳川家康に仕えた内藤清成が、家康から江戸入府の功労により「馬でひと息に回ることができるだけの土地を与える」との命を受けた。清成の愛馬が広大な地を駆け抜け、清成は四谷屋敷の地を拝領したが、馬はそのまま息絶えてしまった。
(6)四谷大木戸跡碑
大木戸とは、江戸から地方に向かう街道の出入口に置かれた関門で、大木戸より日本橋側が江戸府内、外側が郊外と認識されていました。現在の四谷四丁目交差点付近には、甲州街道の関門「四谷大木戸」が設けられ、江戸に出入りする物資や人馬などを検閲していました。
・昭和34年に地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を再利用して造立されました
<この記事についてアンケートにご協力ください。>