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特集「すぎなみビト」落語家 古今亭志ん輔(1)

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東京都杉並区



■プロフィール
古今亭志ん輔(ここんてい・しんすけ)
昭和28年東京都品川区生まれ。47年3月、故・古今亭志ん朝に入門。前座名は「朝助」で、同年4月に演目「時そば」で初高座。52年3月二ツ目に昇進し、志ん朝の前名「朝太」を襲名。60年9月に真打昇進で「志ん輔」を襲名。NHKテレビ「おかあさんといっしょ」では15年間にわたりレギュラーを務めた。平成12年から新日本フィルハーモニー交響楽団とのファミリーコンサートに出演。現在、落語協会相談役。

■高校2年生で「この人の弟子になる」と入門を決心した
Q:落語に触れるようになったきっかけは何ですか?
A:最初は中学生のときにテレビでやっていた寄席の番組。家族が寝た後、夜遅くによく見ていて、「落語って面白いもんだなぁ」なんて思っていました。高校生になってバスケットボール部に入りましたが2週間で辞めて、その後落語研究会に入りました。あるとき、先輩からチケットをもらって見に行ったのが、師匠となる古今亭志ん朝の寄席でした。

Q:志ん朝師匠の落語を初めて見たときの印象はいかがでしたか?
A:師匠は、その頃メディアへの露出が多くて、私は正直あまりいい印象を抱いていなかったんです。タレント芸人じゃないかと。ところが舞台に出てきた師匠を見て驚きました。背中に光をまとっていて、なぜか師匠の周りだけ明るかった。その日の演目はおはこの「火焔(かえん)太鼓」で、私はすっかり魅せられてしまい、終わったときには「この人の弟子になる」と決めていました。

Q:その後、どのような道のりを経て入門に至ったのですか?
A:師匠の家は分からなかったので、まずは電話帳に載っていた師匠の実家(5代目・古今亭志ん生)へ行きました。初めて行った日は、雪がしんしんと降っていたことを覚えています。呼び鈴がなかったので大きな声で声をかけると、長女の美津子姉さんが出てきて「弟子は取っていない」と断られ、その後も進展せず。ただ、師匠の家が神楽坂にあることを教えてもらえたので、次は神楽坂への日参を始めました。でも、そちらでもおかみさんに断られるばかり。そんな私を見兼ねた兄弟子が、楽屋へ行けば師匠に会えるとこっそり教えてくれて、ようやく直談判がかないました。師匠には、弟子になっても落語家として食えるか分からないからやめておいた方がいいと諭されましたが、「それでもいい」と伝えると入門を許可されました。まもなく高校卒業を控えた3月のことでした。

Q:師匠の下で過ごした時期を改めて振り返るとどのように感じますか?
A:通い弟子として毎日師匠の家に通い、師匠のそばにいるとそれだけでウキウキしましたね。今は、弟子入り…就職あるいは学校、という感覚の人が多いように思いますが、その頃の弟子と師匠というのは、学校のように何かを教えるという関係性ではありませんでした。師匠と同じ空間で同じ空気を吸う中で、自分が何をつかみそれをどうしていくかという世界。師匠から学んだことはたくさんあるのに、いざ自分が弟子を取る立場になって、何も教えるものがないと気付いたときは驚きました。ただそばにいるだけでいいという時代は、ありがたかったのだなと思います。

Q:師匠との別れは、思いがけず急な出来事として訪れたそうですね。
A:師匠に肝臓がんが発覚してから、あっという間の別れでした。だから何がなんだかよく分からない感覚で。でも、師匠が63歳で亡くなったのだから自分だってその歳で死ぬこともあり得る。そう考えると、自分も残りは短いのだと思うようになりました。それからは、毎日分刻みに予定を立てて落語に向き合う、ストイックな生活が始まりました。人と話すのもばかばかしいと思えてきて、当時の自分はずいぶん気難しかったと思います。それが、師匠の十三回忌を迎える頃、もういいんじゃないのかという声が聞こえたのかもしれません。気持ちが変わっていって、少しずつそのストイックな生活が溶けていきました。

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