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【特集】「すぎなみビト」俳優 若和屋帆之亟(杉並こども歌舞伎塾講師)(1)

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東京都杉並区


■きっかけはお遊戯会。でも夢はプロ野球選手だった少年時代
Q:俳優の道へ進むきっかけとなった出来事を教えてください。
A:幼稚園のお遊戯会で「おもちゃの兵隊」を踊っていた姿が古典芸能関係者の目に止まり、スカウトされたのがこの世界に入るきっかけです。5歳で入門、8歳で初舞台を踏み、人気が出て、10歳で帆之亟を襲名しました。男の子が日本舞踊をやっているということで友達にからかわれることもありましたが、三味線の音や着物を着ることが好きだったし、なにより初舞台のときに、お客さんが私の踊りで涙しているのを見たときに「もしかしたらこの世界で生きていくのかな」と思いました。

Q:それからは踊り一筋だったのですか?
A:実は小さい頃の夢はプロ野球選手だったんです。小学校から高校までずっと野球部でした。中学2年生のときに、師匠から「女形は、野球をやると首や腕が太くなるからやってはダメ」と言われましたが「どうしてもやりたい!」と直訴。そうしたら「じゃあ高校3年まではやってもいい。でもお稽古だけは通って」と請われ、朝練・授業・夜までの練習、それが終わったら稽古、また朝4時半に起きて…という日々を5年間続けました。高校2年の秋からエースピッチャーになり、プロのスカウトにも誘われましたが、自分の実力では2・3年が限度と分かっていたので俳優の道へと進みました。この5年間で根性が鍛えられましたね。この両立があったから今の自分があると確信しています。

Q:俳優の道一本で歩きだしてからは?
A:野球はやりきったので、芸能の世界に戻ろうと日本大学藝術学部演劇学科に進学しました。周りの人たちは私のことを天才と言っていましたけれども、教授には「君は踊りは素晴らしいが専門的知識が乏しい。大学4年間でしっかりと身に付けなさい」と諭され、そこから猛勉強。歌舞伎役者の五代目坂東八十助(のちの十代目三津五郎・故人)さんや大学の先輩である真田広之さんと出会ったのもこの頃です。八十助さんには「歌舞伎の世界に来ないか」と誘われましたが、今の歌舞伎界は世襲制のため大きな役にはつけないと思い、卒業後は商業演劇の世界に入りました。すぐに朝丘雪路さんの相手役に抜擢され、その後も杉村春子さんの相手役を務めたり、舞台・テレビなどの時代劇に出演したり、歌舞伎フォーラム公演・小劇場公演にも多数、出演してきました。最近ではドラマ『SHOGUN将軍』の日本人所作動作総監修を務めるなど、活動の幅がさらに広がってきているのが嬉しいですね。

■杉並のまちは忙しい私の毎日に癒やしを与えてくれます
Q:杉並に住むようになったきっかけは?
A:以前、住んでいたところで泥棒や空き巣が続いたことがありました。その当時、ある大女優さんから「俳優がそんな治安の悪いところに住んでいたらダメよ!」と言われて、探して決めてきたのが現在の家なんです。家賃は高くなりましたが、住んでみると過ごしやすいし、便利だし、緑も多くてよかったなって。稽古に疲れてリフレッシュしたくなったら近所を散歩したり、井の頭公園までは往復10kmの距離なので良いトレーニングコースとして体作りにも役立っています。

Q:区内にこども歌舞伎塾を作りたいと思った理由は?
A:千葉県などでいくつかのこども歌舞伎に関わっていたのですが、東京に公的なこども歌舞伎がないことを残念に思っていたんです。25年ほど前に杉並区に引っ越してきたときからずっとやりたいと思っていました。周りの人とそんな話をする中、歌舞伎の動きが実はスポーツにつながるという話を面白いと思ってもらえたようで、昨年度、杉並区スポーツ振興財団主催で杉並こども歌舞伎塾が誕生することになりました。

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