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新紙幣を彩る3人の偉人たち~港区とのつながりと新紙幣の秘密~

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■第2回 北里柴三郎~近代日本医学の先導の場となった港区

新千円札の顔は「近代日本医学の父」、北里柴三郎です。嘉永6(1853)年熊本県阿蘇郡に生まれ、熊本医学校(現、熊本大学医学部)、東京医学校(現、東京大学医学部)で学んだ後、内務省衛生局勤務を経て、明治19(1886)年32歳でドイツへ留学します。留学中は病理微生物学研究の第一人者ローベルト・コッホに師事し、破傷風菌の純粋培養から血清療法の確立という一連の研究で、世界的にその名が知られることとなりました。帰国は明治25(1892)年、39歳の時。以後、柴三郎の活躍の場に、現在の港区の地が数多く登場するようになります。
帰国後わずか半年で、最先端の医学情報を提供すべく創立した私立伝染病研究所(東京大学医科学研究所の前身)。場所は芝区芝公園でした。翌年設立した日本初の結核治療専門病院、土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園の地は芝白金で、その敷地には大正3(1914)年に私立北里研究所が創立され、現在は学校法人北里研究所の白金キャンパスとして継続されています。後ろ盾のなかったこの時期、土地の提供等、柴三郎を厚く支援したのが、前一万円札の顔、福沢諭吉でした。この恩に報いるべく、大正6(1917)年の慶應義塾大学部医学科創設に尽力し(三田山上で授業開始)、初代学部長となっています。
国際的にはペスト菌発見等の活躍の一方で、国内では日本医師会等の医学団体や病院の設立等に尽力し、学問と研究と臨床の全てにおいて医学発展の基礎を作り上げた柴三郎の人生は、まさに「日本近代医学の父」と呼ばれるにふさわしいものでした。これらの活動は、日本の学問・研究の場に自由で先取の気風を根付かせるための柴三郎の戦いでした。
昭和6(1931)年、78歳で逝去。南青山の青山斎場で葬儀が執り行われ、今も青山霊園に眠っています。

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