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自治体の皆さまへ

今はむかし その三四九

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東京都狛江市

◆古い地図 調べてみよう 歩いてみよう 思い出の道
古い地図を見ると、今と違った姿がたくさん見えてくる。今住んでいる所は以前どんな所だったのだろうか。どのように使われていたのだろうか。もしそこを掘ったら何が出てくるだろうか等、考えてみるだけでも面白い。いろいろな地図で調べてみよう。歩いてみよう。
小足立と覚東は現在の松原通りの西と東にあった。だから昭和52年の地番改正の時、松原通りを境に東野川と西野川にしたのだ。覚東の名はバスの停留所の名称として今でも残っている。
多摩川住宅の所は湿田(千町耕地)で今よりずっと低かった。だから根川に沿ってもっときつい段差があったが、団地を建てた時に盛り土をしている。千町耕地の狛江市と調布市の境も、多摩川住宅を建てる時に両市が等面積で交換して道路を整備し境界線を真っすぐにした。
駒井町の本村には古い家が集まっている。周囲は水田、本村の一角だけが少し高くなっているので家が集まっていたのだ。本村に限らず水田地帯や野川流域の農家は皆、高い所に建っていた。それに対して水田を埋めて建てた家の多くは低い所にある。特に鉄道会社など大手企業の造成地の多くは道路が基盤の目のようになっている所が多く、階段を上って玄関に入るようになっている所もある。また、砂利穴の上にも家が建っている。
六郷用水というのは西河原公民館の前を通っていちょう通り、世田谷通りの二の橋に出る道である。昭和41年頃から埋め立てが始まったが今は橋が無くても田中橋、一の橋、二の橋の名前が残っている。
野川の流域にもたくさんの田圃(たんぼ)があって曲がりくねって流れていたし、いくつもの分水が出て田圃を潤していた。しかし田圃が埋め立てられ、住宅が増えたことからたびたび水害を起こすようになったので今の水路が開鑿(かいさく)され、旧水路は埋め立てられて野川緑地公園になっている。
伊豆美神社の前の道や品川道などは江戸時代からの道である。どんな道を、どんな人が、どんな姿で歩いていたかを想像するのも楽しい。それらの道がどこにつながっていたかを今も道沿いに立っている「道しるべ」で調べてみよう(一部移動した所もある)。
戦争中の地図を見るとかなり大きな工場があった。何を作っていたのだろうか。
松原の名は、かつて石谷氏の馬場があったことから名付けられたのだが、今では松の木がないのに松原の名が残り、松原通りの名称で南は和泉多摩川、北は三鷹市まで伸びている。
大正時代の地図には桑畑、昭和後期の地図には果樹園がある。その他にもいろいろな地名や記号が出てくるから調べて歩いてみよう。

井上 孝(狛江市文化財専門委員)

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