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絵手紙のひと 小池邦夫のうちあけ話(19)

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東京都狛江市

◆松山と狛江 古里の書家顕彰 心癒す多摩川
《故郷の愛媛県松山市と、もう約半世紀住んでいる狛江市。どちらも一時期は嫌いだった》
松山人は温和でおっとりしている。40代までその「ゆるさ」が嫌だった。手紙書きの僕にとって書は一発勝負。闘いです。松山に帰ったらゆるんで闘えないと思っていた。
転機は50代。元々僕が書家を志したのは、小学生の時に地元の書家・三輪田米山(みわだべいざん)の石文(いしぶみ)(碑)に出あったから。力のこもった書に心をつかまれた。それから約40年。筆一本で立ち、ようやく米山の掛け軸などが買えるようになり顕彰活動を始めた。
松山周辺には米山の石文が80基余り建っている。神社の幟のぼりや碑巡りをしたり、旧家を訪ねて米山の襖の書や掛け軸を見せてもらったりしているうちに、古里との距離がどんどん縮まっていきました。
2006年、僕の呼びかけに応え松山の絵手紙仲間で12人の女性が、米山作品の発掘と石文の拓本採りに立ち上がってくれた。「マドンナチーム」と名乗り、12年までに30カ所近い神社などで拓本を採った。米山の字の彫りは10センチもある。拓本は肉筆に迫る。よくやってくれたな。
08年に僕は、NHKの新日曜美術館「没後100年 三輪田米山の世界」に出演。米山の魅力を伝え、米山の書を「次の世代に引き継いでほしい」と訴えた。松山周辺でしか知られていない書家が、この番組で全国区になった。今も、松山に帰ると米山を見たくなるね。

《狛江市が好きになったわけは、地域の人情と多摩川だった》
狛江に引っ越したのは1974年。多摩川に近い団地の1階です。街の田舎っぽい雰囲気が、好きになれなかったな。でも、近所の商店街の人たちと接しているうちに、変わってきた。自転車屋、文房具店、印刷所……。店のご主人たちの素朴な人情に触れているうちに、僕のかたくなな心がほぐれていった。
多摩川には癒されてきた。進学塾の講師のアルバイトをしていた頃は、多摩川の土手を歩いて小田急線の登戸駅まで行った。水面からコイやフナがはね、バッタやトンボがいた。季刊「銀花」に6万枚の絵手紙を書いた時には、疲れると多摩川のヨシ原に寝転んで空を眺めたな。多摩川はずっと僕の「庭」です。

◆次回から2回にわたり、群馬県の上武大学との関わりをお話します。
(聞き手・元新聞記者・佐藤清孝)

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