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「50年目の伝言」-多摩川水害-

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東京都狛江市

◆元市長「川を甘く見ていた」
◇対策本部
狛江市で多摩川水害が発生した1974年9月1日は日曜日。渦巻く濁流が本堤防に迫っていた。市は水防活動態勢を強化するため午後4時半、在宅職員全員を非常招集。午後6時、市役所に災害対策本部(本部長=吉岡金四郎市長)を置いた。
采配を振るったのが総務部長の長谷川良二さん(89)。前年に38歳の若さで就任した。職員550人の大半を水害対策に配置。現場で活動する市消防団、自衛隊、警視庁、東京都、東京消防庁との連絡調整に追われた。
現場では、堤防がえぐられる「洗掘(せんくつ)」が拡大。対策本部は設置後すぐ、猪方地区などに避難命令を出した。が、2日未明から住宅が次々に流失。家財道具をほとんど持ち出せなかった家族から、「避難命令が遅すぎる」との批判を浴びた。長谷川さんは「事態の進行が予想以上に早かった」と振り返る。
市環境衛生課にいた須田眞立(まさたつ)さん(84)は上司の指示で、避難所になった狛江第三小学校の体育館に駆けつけた。だが、大規模水害への備えは不十分だった。「私も避難所の設営訓練を受けたことはなく、学校には支援物資の備蓄もゼロだった」。避難者に配られたのは災害用毛布1枚だけ。須田さんは徹夜で、収容者の安否の問い合わせに応じる電話番をした。
初日は約1300人が三小に身を寄せたが、対策本部からの情報は全く入ってこない。「イライラしました」。校庭に配備された消防ポンプ車への断片的な無線を聞きながら、現場の様子をつかむのが精一杯だった。
現地と対策本部の通信は、2日未明に電話が架設されるまでアマチュア無線隊が担った。長谷川さんは「通信手段の確保には苦労しました」。
企画広報課職員だった本橋昇さん(77)は月2回発行の広報紙のほか、臨時号として9月10日号と27日号で「水害特集」を組んだ。普段の印刷所では間に合わず、スポーツ新聞社で印刷した。「夜中に校正に行ったことを覚えています」
同課の山口昭二さん(74)は連日、現場でカメラを構えた。多くの写真は、市が1年後に出した記録集「多摩川堤防決壊記録」に掲載された。
山口さんが印象深いのは、崩れた小堤防の仮締め切り工事が完成した6日、吉岡市長が満面の笑みを浮かべ、旧建設省の職員と握手している場面だ。「一安心したんでしょう。それまではずっと厳しい表情だったから」
その吉岡市長は水害が起きた翌月の庁内報「ひろば」で、反省の言葉をつづった。「多摩川が決壊することは夢想をしたことがなく、(中略)われわれは、あまりにも川を甘く見て」いたと。
(元新聞記者・佐藤清孝)

◇長谷川良二さん
災害が発生した時に1自治体ができることは限度がある。だが、4月に台湾で起きた地震で、花蓮市の避難所は発災から2時間後にはテントを設置していた。市やNGOの間で連絡体制が整えられている。狛江市にもボランティアとの連携を頑張ってほしい。市外にいる職員は7割を占める。災害に対応するには初動が大切だ。どうすれば早く駆けつけられるか。能登半島地震のように道路が寸断されると交通機関はあてにならない。普段の準備や訓練が大切だ。

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