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「50年目の伝言」-多摩川水害-

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東京都狛江市

◆国を相手に16年の闘い 住民側勝ち抜く
◇長い裁判
「多摩川水害 勝訴」。
1992年12月17日、東京高裁の前で狛江市の原告住民らが、垂れ幕を高々と掲げた。
この日は、最高裁で差し戻し後の控訴審の判決。高裁は国側に河川管理に手落ちがあったことを認め、総額3億1000万円の賠償を命じた。
74年9月の水害で多摩川の堤防が決壊。マイホームが濁流にのみ込まれた住民34人が76年、国を相手に賠償を求め提訴してから16年余。長い裁判を勝ち抜いた住民らに、ようやく笑顔が戻った。
原告団事務局長を務めたのは故・吉澤四郎さん(2014年死去)。「土井大助」のペンネームを持つ詩人だ。多摩川の岸辺に居を構えて10年後、18棟の家屋とともに自宅を流された。
次男の隆(りゅう)さん(66)は当時高校1年生。遊びに行っていた友人宅から早朝、現場に駆け付けると母が肩を落としていた。
「もうお家がないのよ」
流出前、立ち戻ることが許された5分間に吉澤さんが持ち出せたのは預金通帳と印鑑に位牌、当時小学校4年生の長女(59)のスヌーピーのぬいぐるみだった。「これでもう(家は)駄目なんだな、と思った」と長女は振り返る。
水害発生から4日後、吉澤さんは家屋が流出した住民らによる「多摩川決壊狛江被災者の会」の代表に。週刊朝日の取材に「泣き寝入りはしないつもりです」。被災者を代表して建設省(現・国土交通省)河川局長に補償を求めたが、その非情な対応に業を煮やし、裁判に向けて腹をくくり有志と原告団を結成する。
裁判は蛇行を重ね、住民側勝訴、逆転敗訴、差し戻しを経て住民側勝訴の一審判決に戻り着いた。隆さんは、ほっとしていた父に「けりがついたね」と言葉をかけた。
提訴当時、原告のほとんどは40~50代の働き盛りだったが、裁判が決着する間に5人が他界。吉澤さんは2001年、土井大助の名前で「組詩多摩川の凱歌」(新日本出版社)と題した裁判体験記を出し、「願わくば」の中でこうつづった。
「願わくば、川が安心して流れることができる国土を!水害も水害訴訟もない国を!」
(元新聞記者・佐藤清孝)

◇吉澤 隆さん
50年前の水害の時は、みんな「越水(えっすい)」や「溢水(いっすい)」ばかり考えていた。「洗掘(せんくつ)」による水害で堤防が破壊されることは想像していなかった。土のうは、水があふれた時は役に立つけど、土が削られたら意味がない。行政も洗掘を予想できていれば、住民がもっと早く避難できたと思う。水害は自分たちの予測を超えてくることがある。多摩川だけでなく暗渠(あんきょ)など身の回りの水にも関心をもってほしい。

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