現在、区内の米の生産農家はわずか1軒ですが、江戸時代、足立区は2万石(2万人の成人男性が1年間に食べる米の量)を超える生産量を誇った、豊かな穀倉地帯でした。量ばかりではありません。寛政6(1794)年に幕府が江戸周辺を対象に実施した米の質の調査では、足立区産は最上位の「上々」の更にその上をいく「大上々」とランク付けされたほどでした
家康(いえやす)が江戸に入ったころの足立区は、東側沿いに川が流れる葦原(あしはら)(これが足立区の名の由来とも)で、ここを江戸の穀倉地帯に変えようという計画が持ち上がりました。家康(いえやす)・秀忠(ひでただ)が税や労役を免除して村づくりの有志を募ると、それに応えたのが諸国の浪人たち、つまり武士でした。彼らが数世代かけて堤防を造り、用水を引いて村を拓(ひら)いていったのが足立区の始まりです
幕府の直轄領だったこともあって、将軍が何度も鷹狩(たかがり)に足を運んだことも記録に残っています。その際は休憩所の応接役だけで約100人、道の補修や倒木の除去など、お鷹場(たかば)の管理に村中の人が仕事を休んで駆り出され、大変だったともいわれています。今回の特集では将軍が休憩した場所もご紹介しています
区内に遺る徳川(とくがわ)家の足跡を「バスで巡る」「歩いて巡る」、2つのツアーも企画しました。どちらもガイド付きですので、「へえ~」連発のエピソードがたくさん聞けるはずです。ご参加お待ち申し上げます。
※現在の足立区は江戸時代、武蔵国(むさしのくに)足立郡の一部ですが、本記事上では表記を「足立区」に統一しています。
足立区長 近藤やよい
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