■私が喜連川支店を設計した証拠をぜひ見つけてください
大森茂(1892~1934)
出典:水戸市水道抄誌(提供:水戸市上下水道局)
▽設計者大森茂とは
設計者として記された大森茂は小貝村(現市貝町)で服部合名会社や茂木製箱合資会社に関わり、1895(明治28)年から3年間小貝村議を務めた大森辰吉の次男として1892(明治25)年に生まれます。1913(大正2)年東京高等工業学校建築科を卒業後、一度は建築事務所に務めるも、同校研究科に入り直し、1919(大正8)年大森建築事務所を開設します。
代表例として、明治大学(現存せず)、東京医学専門学校(現東京医科大学、現建物)などの設計で活躍するものの、41歳の若さで亡くなっています。
▽得意なのは優美なコンクリート建築
大森茂は1923(大正12)年に起こった関東大震災後の復興期に活躍したため、火災や地震に強いコンクリート建築を、東京都や千葉県、鹿児島県そして郷里の栃木県などで60以上手掛けました。栃木県では、茂木銀行(現存せず)や宇都宮延命院などがあります。
大森茂のコンクリート建築は無機質でなく近世復興式の八角形の柱や西洋唐草の装飾、ステンドグラスを配した窓など優美でした。
多くの名建築を手掛けているため、建物設計の履歴もありますが、下野中央銀行壬生支店、喜連川支店は小さな建物だったためか、履歴になく、近代建築史の中で新発見となりました。
近代建築は銀行だけでなく役所、病院、学校、警察などの建物として多く建てられましたが、常に時代の最新設備が求められる建物でもあるため、その多くは壊されて建て替えられます。大森茂が設計した60以上の建物も、現存する建物は10棟もなく、この和い話い広場の建物が短期間で銀行の役目をいったん終え、更に小さき故に奇跡的に残ったと考えられます。
▽県内有力銀行下野中央銀行とは
下野中央銀行は、1925(大正14)年に県主導で6行が合併した、当時の足利銀行に次ぐ大手銀行です。
途中から高根沢町の大地主の見目清が頭取を務め、取締役には喜連川の高塩武もいました。高塩武は市縁の童謡詩人、野口雨情の妻ヒロの兄でもあります。
下野中央銀行は設立当初、現在のさくら市に氏家支店、氏家栄町支店、熟田支店、喜連川支店、喜連川東支店の5支店があり(第1期営業報告書、大正14年)、後に氏家支店と喜連川支店に集約されました。(第13期営業報告書、昭和6年)
和い話い広場の建物が建った1929(昭和4)年の第9期営業報告書では栃木県特産の干瓢や大麻の高値による経営維持が見られますが、その後、不況の影響を受け、経営は悪化し、栃木県の経済界に大混乱を引き起こしながら、1935(昭和10)年に消滅します。
▽当時珍しい双子の建物
阪東さんは、壬生支店の冊子にある平面図をもとに、和い話い広場の建物を測ったところ同じ寸法でした。壬生と立地もほぼ似ていたため、当時では珍しく、同じ図面で建設したと考えられます。
更に、下にある内部の写真を見比べても、金庫室や大理石のカウンターなど和い話い広場の建物には、銀行時代の面影がほぼ写真と同じで残っていることも、とても貴重です。
▽最後のナゾを解けるのはさくら市民!
和い話い広場の建物は下野中央銀行喜連川支店として昭和4年4月30日に建てられ、その設計者は大森茂であるとほぼ確認ができました。しかし、ほぼであり、喜連川支店を大森茂が設計した当時の記録はまだ見つかっていません。それが見つかって初めてナゾが100%解決したと言えます。ぜひ家に潜んでいる証拠の資料を見つけた際には、総合政策課やミュージアムにご連絡ください。
なお、この記事作成に関して、阪東峻一さん、石川明範さん、市貝町教育委員会、水戸市上下水道局、喜連川観光協会など多くの方にご協力をいただきました。ありがとうございました。
問合せ:総合政策課
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