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上三川こぼれ話 〜第17話 「上三川の交通網〜渡船編〜」〜

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栃木県上三川町

江戸時代以降、河川の有用性に目を付けた徳川幕府によって、上流と下流を結ぶ河川交通は大きく発展しました。町域では鬼怒川に東蓼沼(ひがしたてぬま)と三本木(さんぼんぎ)に河岸が置かれ、物流の拠点となっていました。しかし、これらの河岸は東北本線の開通とともに急速に衰退(すいたい)しました。

一方で、川の両岸を結ぶ渡船(とせん)は、現在のように橋梁(きょうりょう)が整備されるまでは、川を渡る手段として主流でした。明治10年頃、県内には100を超える渡船場があり、町域には鬼怒川に4か所ありました。それぞれ東汗(ひがしふざかし)-勝瓜(かつうり)・東蓼沼-柳林(やなぎばやし)・上郷(かみごう)-大沼(おおぬま)・上三川-粕田(かすだ)を結んでいました。

この頃の渡船場はすべて民営で、一般に小船と馬船(うまぶね)を各一艘(いっそう)所有して運営していました。渡船料は、片道1人約1銭(せん)で、馬を渡す場合や夜間は2倍が一般的でした。出船(しゅっせん)に際し、定員になるまで出発しない、酒代を請求することもあり、全国的に問題となって明治政府が通達したこともありました。

真岡と雀宮を結ぶ重要地点であった東汗渡船場の経営を見てみると、大正13年に県営となるまで、免許権は村総代(そうだい)個人名であったものの村営でした。村民からの修繕費(しゅうぜんひ)等の負担、渡船料徴(ちょうしゅう)によって運営されていました。鬼怒川の東側に村の入会地(いりあいち)があったため、年間を通して草刈りや落葉さらい、薪(まき)切りの仕事が絶えず、船頭(せんどう)は大忙しだったようです。

渡船場は、時代とともに姿を消し、現在ではその痕跡(こんせき)を見つけるのも容易ではありません。明治から昭和にかけて町の発展を支えた文化遺産であることは間違いないでしょう。

問合せ:生涯学習課 文化係(中央公民館内)
【電話】56-3510

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