7世紀後半、法によって国家を治める律令(りつりょう)制度の確立に伴い、都と地方を結ぶ官道(かんどう)が全国的に整備されました。町域を通る「東山道(とうさんどう)」は、古代国家が整備した7つの官道のうちのひとつで、都と東北地方を結ぶ幹線道路として重要な役割を担いました。今でいう東北自動車道のような役割でした。
東山道は、近江国(おうみのくに)(滋賀県)を起点に美濃国(みののくに)(岐阜県)、信濃国(しなののくに)(長野県)、上野国(こうずけのくに)(群馬県)を経て、下野国(しもつけのくに)(栃木県)へと至ります。下野国内では、足利郡(足利市)から入って下野国府(しもつけこくふ)(栃木市)、下野薬師寺(しもつけやくしじ)(下野市)、上神主・茂原官衙遺跡(かみこうぬし・もばらかんがいせき)、長者ヶ平遺跡(ちょうじゃがだいらいせき)(那須烏山市)を通って陸奥国(むつのくに)(福島県)に入り、多賀城(たがじょう)(宮城県)へと至ります。
官道には原則として、30里(り)(約16km)ごとに「駅家(うまや)」が置かれました。いわゆる道中における中継施設であり、物資を運ぶための馬が飼育され、主に駅間の運搬を担っていました。これが現在の駅伝の語源です。多功の地には田部(たべ)駅家があったといわれています。
東山道は、各国の国府を結びながら、中央国家に恭順(きょうじゅん)していなかった蝦夷(えのし)と接する地方へ至る最短ルートでした。いつ頃どのように整備されたのか分かっていないことが多いですが、政治的・軍事的にとても重要な役割を果たしています。
律令国家の衰退後も諸国を結ぶ幹線道路としての役割を果たしていましたが、江戸幕府による江戸を起点とした街道整備により、西側は中山道(なかせんどう)、東側は奥州街道(おうしゅうかいどう)へ再編されました。
いつもの通いなれた道がもしかしたら古代から続く道、なんてこともあるかもしれません。
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