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新・下野市風土記

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栃木県下野市

■「年の瀬の祓(はら)い」
下野市教育委員会 文化財課
12月も中旬になると、きれいな部屋で新年を迎えようと大掃除をする家庭が多いのではないでしょうか。特に新型コロナやインフルエンザなどウイルス性の伝染病が流行した昨今、常時使う場所のほか、家中のホコリなどもきれいにしてしまいたいものです。
現代人のように科学の進歩により伝染病がウイルスに起因すると分かっていても、「アマビエ」など非現実的なものを頼りにしてしまいます。人間の心情として神頼みは、いつの世でも同じなのかもしれません。

理科学的な分析が不可能であった古代においても、最後は神仏に頼りました。そのため、年間を通じて様々な祭祀(さいし)行為が規定に従って行われました。その実施要綱のような決め事は、下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)が編さんに関わった「大宝律令(たいほうりつりょう)」に始まる「律令」のうちの「令」(行政法的な内容が多い)により決められました。平安時代まで幾度も改変が行われ、現在「延喜式(えんぎしき)」「令集解(りょうのしゅうげ)」「令義解(りょうのぎげ)」として伝わっています。令の規定は第一条「官位令(かんいりょう)」から始まり、第六条「神祇令(じんぎりょう)」に祭祀に関する規定が定められています。その中には、春夏秋冬のシーズンごとにどのような祭礼をするのかが記されています。
例えば、春の終わり頃に催された「鎮花祭(ちんかさい)」は、大和(やまと)国一之宮(いちのみや)の大神神社(おおみわじんじゃ)(三輪明神(みわみょうじん):奈良県桜井市三輪)などで行われた祭りで、春に花が咲く(花粉が飛散する)とそれと共に疫神が四方に分散し、疫病を起こすと考えられ、それらを鎮めるための祭りであったようです。千年以上前に花粉症は無かったかもしれませんが、何か現代の病に通じる症状があったのでしょうか。
「神衣祭(かんみそさい)」は、伊勢神宮において神の御衣(ぎょい)を織って奉納する4月と9月に行われる行事で、この衣を織る人たちが麻績連(おみのむらじ)・服部連(はっとりのむらじ)ですが、奈良時代の下野国内にも大麻績部(おおおみべ)・若麻績部(わかおみべ)名の氏族が多数いたようです。古代河内郡の役所と考えられている国史跡上神主(かみこうぬし)・茂原官衙(もばらかんが)遺跡(宇都宮市・上三川町)の倉庫に使用された複数の瓦には、この氏族名が線刻されています。同様に4月と9月には、奈良県生(いこま)駒郡竜田(たつた)神社などで風の神を祀る「風神祭(ふうじんさい)」が行われました。
また、季(すえ)の夏(6月)と季の冬(12月)には「鎮火祭(ちんかさい)」と「道饗祭(みちあえのまつり)」が行われました。この2つの祭祀はセットで行われていたようで、対になって記されています。どのような内容か全容は分かりませんが、いずれも藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)・平安京(へいあんきょう)などの宮都の四隅の衢(ちまた)で行われ、延喜式や令義解によると、「鎮火祭」は「宮城四方角」において火災を防ぐため、卜部(うらべ)(祭礼を司る氏族)が、(舞錐(まいきり)の)火起こし具で火を起こし、火を祝詞(のりと)と共に火の神に捧げる儀式が行われたようです。「道饗祭」は都の中に「鬼や魍魎(もうりょう)」が入ってこないように、都に通じる道の出入口にお供え物を置き、鬼などを饗応(きょうおう)して帰ってもらうお祭りのようです。延喜式には類似する祭りとして「宮城四隅疫神祭(きゅうじょうよすみえきじんさい)・畿内堺十処(きないさかいじゅうところ)疫神祭」などが記されています。古代には、疫神などの禍(わざわい)があちこちから入ってくる、交差点の衢に滞留する、と考えられたようです。
この祭祀は都のある畿内だけで行われたのではなく、地方でも同様の祭祀が行われたことが、発掘調査により判明しています。史跡多賀城跡(たがじょうあと)(宮城県多賀城市)や北陸の郡役所跡などから、祭祀に使われたと考えられる様々な遺物が出土しています。下野国府(しもつけこくふ)(栃木市)でも同様にこの鎮火祭が行われていたようで、「□真火祭□□」(□は判読不能文字・国府4173)と記された木簡(もっかん)の破片が出土しています。中央から役人が派遣された地方の役所である国府や多賀城、大宰府(だざいふ)などでも、都と同じような碁盤の目のような構造の都市空間がつくられ、都と同じような祭祀が行われたようです。

参考文献:栃木県教育委員会『下野国府』木簡編

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