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新・下野市風土記

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栃木県下野市

■令和4年度の発掘調査から
下野市教育委員会 文化財課

下野市が誕生してから、あるいはその前の町の時代から、ほぼ毎年、現在の市域内では発掘調査が行われてきました。多い年には年間を通じて調査が行われ、様々な時代の遺構(いこう)(人が生活するために造った構造物が、不動産的に後世に残った状態のもの。例えば、竪穴建物跡(たてあなたてものあと)、井戸跡(いどあと)、溝跡(みぞあと)など)が確認されました。今回は、令和4年度に調査された遺跡についてご紹介します。

一本松遺跡(いっぽんまついせき)は、石橋北小学校の東側に位置し、北関東自動車道に新設されるスマートインターチェンジの事前調査として、令和3~4年度に調査を実施しました。ここからは、奈良~平安時代の家と考えられる竪穴建物跡およそ20軒、井戸跡2基が確認されました。
この遺跡は、平成7・8年度の北関東自動車道建設時にも調査が行われており、その際も同時代の遺構が多数確認されています。この地域の畑では、石橋名物の牛蒡(ごぼう)の作付けが盛んに行われているため、一部の遺構は作付け用機械によって地面が深く掘られており、土器などが割れた状態で確認されました。市内の農家の方からは、「牛蒡を作付けしようと深く掘ったら玉石(たまいし)が出てきたが、そのせいで機械が壊れて迷惑している」などと伺うことがあります。今回の調査では、作付け用機械の掘削よりも深い構造の竪穴建物跡が確認され、破損をまぬがれた土器類が多数出土しました。
出土した土器から、この竪穴建物跡は8世紀の中頃に使われた家の跡と考えられます。同時期のものとみられる他の家の跡が1辺3.5~4m程度なのに対して、この家は1辺約7mとかなり大規模でした。この家からは200点以上の土器の破片が出土しましたが、この家で使われたものと、この家が廃棄された後に、くぼみになっているところに周りの人がごみとして土器の破片などを捨てたものが混じっていることがわかりました。なぜそれがわかるかと言うと、この家で使用された土器などの遺物は床面のすぐ上やカマド周辺、貯蔵穴(ちょぞうけつ)(床下収納のようなイメージ)から出土する一方で、廃棄された遺物は床面よりも高い堆積層(たいせきそう)から出土しています。そのことから、竪穴建物跡が埋没していく途中で捨てられたと想定することができます。
また、この家は他の家よりも大きいことから、裕福だったのかもしれません。他の家では使われていないような直径20cmもある大きな皿や高坏(たかつき)(脚部のついた皿)、東海地方で製作された灰釉陶器(かいゆうとうき)などの食器セットが確認されました。庶民の家の跡からは、これらの遺物はほとんど出土することはなく、直径10~13cm程度のお椀型(わんがた)の土器が出土する程度です。食器からも、当時の社会構造に格差があったことがわかります。

さらに、出土した遺物の中には「貝巣穴泥岩(かいすあなでいがん)」(海岸で貝が岩に巣をつくる時に穴をあけた岩の破片)が捨てられていました。本来は人がつくったものではないので、遺物と解釈するのは違うとのご指摘をいただくかもしれませんが、これは恐らく、現在の茨城県の海岸で海水や藻を焼いて塩をつくった際に、塩に混じって運ばれてきた岩の破片と考えられます。もしかすると、塩の重さをごまかすためにわざと入れられたのかもしれません。人が介在してここに運ばれたものなので、遺物として取り扱いたいと思います。

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