■「律令」の始まり(1)
下野市教育委員会 文化財課
今から1323年前、大宝元(701)年正月朔日(ついたち)の様子が『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されています。「文武(もんむ)天皇が完成したばかりの藤原宮(ふじわらきゅう)の大極殿(だいごくでん)に出御(しゅつぎょ)され、皇族、貴族、百官(ひゃっかん)(官僚)から新年の祝辞を受けた」とあります。
大極殿の正門を入ると、回廊(かいろう)に囲まれた空間に官僚たちが階級順に整列し、その官僚たちの目前である大極殿の正面には、烏形(からすがた)(八咫烏(やたがらす):日本サッカー協会のシンボルにもなっている3本脚のカラス)を中心に、左側に日像(にちぞう)(太陽)、青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく)、右側には月像(げつぞう)(月)、玄武(げんぶ)、白虎(びゃっこ)の幡(ばん)(旗)が立てられています。シンボルカラーが青の青龍は東、赤の朱雀は南、黒の玄武は北、白の白虎は西を守る伝説の生き物で、高松塚(たかまつづか)古墳の壁画にも描かれています。ちなみに、国技館(こくぎかん)の土俵(どひょう)の上に下がる赤総(ふさ)・黒総の色などはこれにつながり、方角も示しています。
この時の文武天皇の言葉なのか、続日本紀の編さん者の意見なのかは正確には分かりませんが、「文物(ぶんぶつ)の儀(ぎ)ここに備(そな)われり」と記されており、現代的な表現をすると、国づくりに必要な藤原宮建設のハード事業と大宝律令(法令整備)のソフト事業の両方が完成したということになります。さらに対馬(つしま)で金が採掘されたことから、元号も「大宝」に改めるほど文武天皇はお喜びになったようです(後に、対馬で金が採掘されたのは嘘の申告だったことが発覚します)。
では、律令とはどういう内容だったのでしょう。残念ながら、この大宝元年に編さんされたオリジナルの内容は、現在ではわかりません。その後に幾度も法の再整備が行われました。よく知られている法改正に「養老(ようろう)律令」があります。養老2(718)年ですから、大宝律令の完成から17年で、再び藤原不比等(ふじわらふひと)が関わり法改正をしています。しかし、施行されたのは天平宝字元(てんぴょうほうじがん)(757)年と、改正から施行まで約40年かかりました。この養老律令は、明治になって内閣制度ができ、太政官(だじょうかん)制度が廃止された明治18(1885)年まで、幾度も改正されながら1128年も使い続けられることになります。また、大宝律令や養老律令で整備された中央官僚機構制度(ちゅうおうかんりょうきこうせいど)「二官八省(にかんはっしょう)」のうちの一つである「大蔵省(おおくらしょう)」の名称は、平成13(2001)年1月6日に至るまで1300年間も使われました。平安時代になると、律令制度の施行細則(せこうさいそく)(補助法令・取り扱い説明書のような内容)として三代格式(さんだいかくしき)(弘仁(こうにん)・貞観(じょうがん)・延喜(えんぎ):いずれも編さん時の元号)がつくられています。
律令の内容について少し見てみましょう。中学や高校の歴史の授業で学習して記憶にある方も多いと思われますが、「律」は刑法、「令」は行政法をはじめとした刑法以外の法律のことについてまとめられています。律令の「律」の項ではいきなり、五罪(ござい)(五つの重罪に対しての処罰)について記されています。軽い処罰から笞(ち)(細い木で打つ)・杖(じょう)(棒で叩く)・徒(ず)(労役)・流(る)(流罪)・死(死罪)となります。さらに八虐(はちぎゃく)(謀反(むへん)・謀大逆(むたいぎゃく)・謀叛(むほん)・悪逆(あくぎゃく)・不道(ふどう)・大不敬(だいふきょう)・不孝(ふこう)・不義(ふぎ))についても記されています。
謀反・謀大逆・謀叛の3つは君主や国家に対する罪で「謀(はかりごと)」の文字が付きますが、これは計画しただけでも罪に問われることを意味しています。実行する前の「謀」の段階で発覚しても、すべて死刑の対象となります。残り5つは、社会・身分・家族などの社会構成の秩序を脅かす反社会的行為などの犯罪に対する刑罰についての取り決めが記されています。この法令のもとになっているのが唐(古代中国)の法令で、唐の律はこの8つのほかに「不睦(ふぼく)」(家庭不和)、「内乱」(一族を乱す、一族の名に傷をつける犯罪)が入った「十悪」で構成されていました。
参考文献:岩波書店 日本思想体系『律令』
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