■「闇夜の灯火(ともしび)」
しもつけ風土記の丘資料館
例年、中秋の名月の頃に下野薬師寺跡で開催されている「エゴマ灯明(とうみょう)の会」が今年も開催されました。今回は、その会場でご質問いただいたことについて記します。
◆灯明皿とは
飛鳥~平安時代の寺院跡の発掘調査では大量の瓦が出土しますが、これに混じって土器類が出土することがあります。食事のために土器や木製の器を使いますが、聖域である金堂や塔の付近ではおそらく飲食はせず、僧侶は伽藍(がらん)北側の食堂(じきどう)や僧坊周辺で食事をしたと考えられます。
発掘調査により、下野薬師寺跡や下野国分寺跡では聖なる空間を区切る回廊付近から100点近い大量の土器が出土していますが、ほぼすべての器の内側や口縁部にタール状の焦げた痕跡が残っています。この焦げ付きは、器に入れた油を燃料として、植物の繊維で作った灯明の芯に燈とう火かを灯した痕跡です。これらは本来食器として造られたものですが、灯明皿と呼ばれるものに分類されます。
◆地震犠牲者の供養と灯明皿
現在、宮城県多賀城市域では東日本大震災から復興のための発掘調査が継続して行われています。これらの調査で、貞観(じょうがん)11(869)年に東北地方が地震と大津波に見舞われた痕跡が確認されています。奈良時代には、多賀城市に東北経営の拠点として多賀城が配置され、政治的な拠点としての官かんが衙と仏教教義の拠点としての多賀城廃寺(たがじょうはいじ)が建立されました。天平年間には仙台市内に陸奥国分寺(むつこくぶんじ)と尼寺が建立されましたが、これらの役所や寺院の建物なども貞観地震の被害を受けたことが調査で確認されています。その被害状況や復興の様子は『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』や『類聚国史(るいじゅうこくし)』などにも記されています。
平成27年度には、多賀城廃寺跡に近接する高崎遺跡から大量の灯明皿が一括廃棄された状態で発見されました。これらは土器の年代から貞観地震後に犠牲になった人々を供養するために万まんどうえ灯会が行われた痕跡と考えられています。下野薬師寺跡や国分寺跡で出土する灯明皿はこの時期に近いものが多く、当地域でも少なからず地震の被害があり、多賀城と同じように万灯会が行われたのかもしれません。
◆燃灯供養で使用された油
この万灯会の古い記録は、天平16(744)年12月に東大寺の前身の金鐘寺(こんしゅじ)で、一万杯の燃灯供養が行われた記録があります。では、当時使用された油は何だったのでしょう?
油については常温で液体のものが油、固体・半固体のものが脂と定義されています。種類は植物性・動物性・鉱物性の三種類で、鉱物性の油=石油に関する記録は『日本書記』の天智(てんじ)天皇7(668)年に「越国(こしのくに)(新潟県)、燃ゆる水を献ず」と記されており、石油は匂いがすることから臭水(くそうず)と呼ばれていました。北陸地方では、縄文時代の遺跡からアスファルトを接着剤のように使ったものも出土します。神仏に捧げる灯明には石油が使われた事例はなく、植物性の油が使用されました。
平城京や藤原京の調査を行っている奈良文化財研究所の研究によれば、奈良時代に使用された主な植物油は、ゴマ・麻・エゴマ・イヌザンショウ・ツバキ・クルミ・イヌガヤなどで、灯火だけでなく、塗料や刀の研磨、工芸、馬用の薬などにも使われた可能性が指摘されています。およそ30年前、奈良~平安時代の集落跡の竪穴住居跡から出土した灯明皿に付着している焦げを分析したところ、鳥類やイノシシなどの動物性の油脂が使われた結果が出たことがありました。広範囲にわたって焦げが付着しており、恐らく煙がもうもうと立ち、焼き肉のような匂いが住居内に漂ったと考えられますが、さすがにこの脂は仏様の前では使用できなかったと思われます。
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