■田植え しもつけ風土記の丘資料館
天平の丘公園の八重桜が開花する頃になると、水田に水が張られ、苗を積んだ軽トラックと大きな田植え機が忙しそうに動き回り、あっという間に田植えが進んでいきます。弥生時代以降昭和初期の人たちがこの様子を見たら、さぞ羨ましがることでしょう。
県内ではほとんど確認されていませんが、日本各地で確認されている弥生時代から古墳時代の田んぼ1枚の規模は畳(たたみ)2畳(じょう)くらいのものが多く、また、少しでも多く収穫できるよう時代と共に品種改良がされたことも分かっています。
著名な国立歴史民俗博物館名誉教授の著書には、各地の遺跡から出土した、奈良時代の米の種籾(たねもみ)に付けられた木簡(もっかん)(木札)について記したものがあります。例えば、奈良~平安時代の奈良県東大寺(とうだいじ)の荘園(しょうえん)と想定されている石川県金沢市上かみ荒屋(あらや)遺跡出土「大根子(おおねこ)」、山形県遊佐町上高田(ゆざまちかみたかだ)遺跡出土の「畔越(あぜこし)」、金沢市畝田(うねた)ナベタ遺跡出土の「須□(□は判読不能、「流」か?)」、福島県会津若松市矢玉(やだま)遺跡(奈良~平安時代前半の官衙(かんが)遺跡)からは、「足張(すくはり)」・「長非子(ながひこ)」・「荒木(あらき)」・「白和世(しろわせ)」などのほか、平成11年度の時点で24種、そのうち種子札(たねふだ)と想定されるものが10点確認されていると記されています。この時代、税などとして納める米に付ける「付札(つけふだ)」は五斗俵(ごとたわら)(一斗は約18L)ごとに、稲の品種を記した「種子札」は一石(いっこく)単位(精米すると五斗相当)の一俵(いっぴょう)ごとに付けられました。
さらに先生は、それぞれの稲の命名には意図があり、「白和世」の和世は「早稲(わせ)」を示し、「畔越」は畔を超えるほど、「足張」はまっすぐ伸びる、「長非子」は長く伸びる、あるいは籾が長いなど、稲や籾の特徴や形状を示すほかに成長への期待などが込められていると指摘しています。米は1,300年前から多くの品種が育成され、今も昔もより多くの収穫が期待されていたのです。
また、古代の文献史料にも、米には固有の品種名があったことが伺え、先生は古代の役人の休暇からそれを読み解いています。律令(養老令仮寧令給休仮条(りつりょうようろうりょうけにょうりょうきゅうきゅうかじょう))によれば、「都の役人には一か月に五日の休暇を与えるとともに、それぞれの地域の田植えと刈り取りにあわせて中稲(なかて)を基準として農繁期の五月と八月には休暇を給する」と定めています。地域により時期がずれるということは、中稲(なかて)を基準に早稲・中稲・晩稲(おくて)の三種があることが分かります。
また、「多くの下級役人は都の周辺に土地をもち、農業にも従事しているので、役所の業務に支障が起こらないように、それぞれの地域の農繁期に時差を設定していたといえる。農繁期における労働力の確保も目的の一つで、他地域(郡)からも恒常的に供給されたのだろう」と指摘しています。
弥生時代から現在に至るまで、米作りはクニの根幹事業であり、大変な作業なのです。
参考文献:平川南(2008)『全集日本の歴史2 日本の原像』小学館
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