文字サイズ
自治体の皆さまへ

新・下野市風土記

20/42

栃木県下野市

■「昭和100年」
しもつけ風土記の丘資料館

新しい年、西暦2025年(令和7年)は、昭和100年にあたります。昭和は西暦1926年12月25日に始まり、1989年(昭和64年)1月7日に62年と14日続いて終了しました。このように記すと、昭和64年まであるのに62年とはなぜ?と疑問に思われるかもしれませんが、元年は12月25日からの7日間、64年も1月7日までの7日間のため、昭和天皇の在位期間は62年と14日となります。

ちなみに多くの方の記憶にも残っていると思いますが、令和の元号の出典は、『万葉集』巻の五「梅花の歌」です。

初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

書き下し文:初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(か)を薫(かおら)す
現代語訳:新春の好(よ)き月、空気は美しく風は柔らかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のように開き、蘭はお香の如き香りを漂わせている

作者については諸説ありますが、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した歌人で大宰府帥(だざいふそち)(最終官位は大納言従二位)・大伴旅人(おおとものたびと)(大伴家持(おおとものやかもち)の父)といわれています。ちなみに旅人は歌人として知られていますが、710(和銅3)年正月の元明(げんめい)天皇の元日朝賀(がんじつちょうが)の際に、左将軍として副将軍穂積老(ほづみのおゆ)と共に騎兵・隼人(はやと)・蝦夷(えみし)らを率いて平城京朱雀大路(すざくおおじ)を行進し、征隼人持節大将軍(せいはやとじせつたいしょうぐん)として数々の隼人の反乱を鎮圧した実績を持つ人物です。

では、昭和の元号は何から採録されたかというと、漢学者・吉田増蔵(福岡県出身、京都帝国大学卒)によって『書経』(四書五経の一つ)の「百姓昭明、協和万邦」から考案されました。

百姓昭明、協和万邦

書き下し文:百姓昭明(ひゃくせいせうめい)にして、万邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す
現代語訳:国民の平穏な暮らしと世界各国の共存共栄を願う

元号を創案した吉田増蔵は帝国大学を卒業すると英語を学ぶため渡米し、帰国後は奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)で教鞭(きょうべん)を執られた方で、1920年(大正9年)には宮内省図書寮編修官になりました。当時、宮内省帝室博物館総長兼図書頭だった森鴎外(もりおうがい)と親交を深めた間柄で、鴎外は「少年の時から今に至るまで一際の秘密無く交際した友だった」と、心底から信用した友人であったと記しています。宮内省図書寮編修官であった吉田は、宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)から元号勘申(かんじん)が命じられ、「日本のほか、中国、東アジアを含む過去の元号と重複しない」「国家の理想を表徴する」「古典を典拠とする」「親しみやすい音である」「字画が簡明平易」の5つの要件をクリアするような元号を選定するよう申し渡されました。吉田は「昭和」を第一候補とした10の案を提示し、西園寺公望(さいおんじきんもち)の意見とともに若槻礼次郎(わかつきれいじろう)首相に提出しました。1926年12月に大正天皇が崩御すると「昭和」の案が枢密院全員審査委員会で採択され、大正の次の元号となりました。
吉田は皇族の御名の考案や勅語などの作成にも多く関わり、上皇明仁(あきひと)の御名も考案されています。また、万民の平穏な暮らしを望み、「昭和」の元号を創案したにもかかわらず、1941年(昭和16年)12月の「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(太平洋戦争開戦の詔勅)の起草にも携わることとなりました。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU