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新・下野市風土記

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栃木県下野市

■「一つの破片から」
しもつけ風土記の丘資料館

市内には500か所を超える周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)が所在します。下野市は県内の市の中で一番面積の小さい自治体ですが、単位面積当たりの包蔵地の密度は県内随一と考えられます。これは居住不適合地が少ないことと相まって、本市域が古代から災害が少なく住みやすい土地だったことを証明しています。

これまで、市内の緑地区と国分寺地区からは1万数千年前の後期旧石器時代の石器が、道の駅しもつけの南の台地からは1万1千年前に定住した人が使った爪形文(つめがたもん)土器が、絹板地区などでは縄文時代中・後期の竪穴建物跡(たてあなたてものあと)が発見されています。また、三王山南塚(さんのうやまみなみづか)古墳の下層から、縄文時代の遺物が多数出土しています。弥生時代後期の遺跡は三王山地区や箕輪地区などで確認され、この時期から古墳時代前期の集落は市内各所で確認されています。古墳時代後期には下毛野(しもつけの)を代表する墳長80m級の後期古墳「下野型古墳」が南河内・石橋・国分寺の3地区に築造され、それらとともに下石橋愛宕塚(しもいしばしあたごづか)古墳(新幹線の工事により消滅)は、当地域を代表する首長の墓であると考えられています。この時期の古墳は市内に多く点在しますが、集落はほとんど確認されていません。集落は、主に下石橋地区から大領地区の台地上で確認されていますが、大きな古墳を造れるほどの人口密度ではないので、相当広範囲を領有していたと想定されます。

北関東自動車道の上三川インターとその両側に広がるインターパーク地区では、古墳時代中期から後期の3,000軒以上の竪穴建物跡や豪族居館跡(ごうぞくきょかんあと)などが確認されており、この地域が当時の中心地であったことが分かります。しかし、7世紀中頃(650年頃)以降、この地区も含め県内外を問わず、確認される竪穴建物跡の数が減少します。現代の人口減少問題の古代版ではないですが、この頃は古代後期の小氷期(しょうひょうき)に相当する時期でした。気象学の研究成果によると西暦400年頃から100年単位で冷涼期(れいりょうき)が続き、600~750年頃には古代後期小氷期と呼ばれ更に気候が寒冷化し、750~900年代は旱魃(かんばつ)が増えるような温暖化が10世紀まで続き、平安京(へいあんきょう)では鴨川(かもがわ)が頻繁に氾濫しました。

この人口減少の中で、下野薬師寺跡周辺には複数の新たな集落が形成されました。現在、しもつけ風土記の丘資料館で開催している企画展では50年前に調査された薬師寺南遺跡から出土した資料を再「一つの破片から」しもつけ風土記の丘資料館検証し展示しています。約150軒の竪穴建物跡から出土した大量の土器の破片の中には、奈良県飛鳥の宮都周辺で使われた土器と同じかたちのものや、平城京周辺で製作され当地域に持ち込まれ使われたものなどがあり、その破片を展示しています。特に飛鳥地方で使われた土器を模倣し生産された土器は、県内では下野市や上三川町の旧河内郡の中心地域でしか出土していません。これらの出土品から、古墳時代中後期は宇都宮市南部のインターパーク周辺が中心地でしたが、飛鳥時代には上三川南西部・石橋地区・薬師寺地区へと中心が移り、その後奈良・平安時代になると栃木市東部の下野国府から下野国分寺・尼寺周辺へと下野国の中心地が広がることが理解できます。

参考:大阪府立大学 緑地環境科学類 生態気象学研究グループホームページ

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