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特集 縄文王国 大田原!

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栃木県大田原市

■大田原市には縄文遺跡がたくさん!
豊かな湧水に恵まれた大田原市内には、たくさんの縄文時代の遺跡があります。那須・塩谷地域は、県内でも縄文時代の遺跡の宝庫です。
発見されている遺跡の60~70%が縄文時代の遺跡で、なかでも縄文時代中期(約4500年前)には大規模な集落が展開していたことが発掘調査により明らかになっています。
大田原市には、全国的に知られる湯坂(ゆさか)遺跡出土の土器(市指定文化財)をはじめ、大田原地区の平林真子(ひらばやしまご)遺跡や羽田長者ヶ平(はんだちょうじゃがだいら)遺跡、湯津上地区の品川台遺跡や岩船台遺跡、黒羽地区の川西小学校遺跡や不動院裏(ふどういんうら)遺跡などの遺跡が集中しています。

■縄文土器とは?
長い氷河期が終わり、温暖化の気候に移り変わるころ、「土器」が出現しました。土器の発明により、調理や保存ができるようになったことで食生活が大きく変化していきます。このような生活の中で、縄を転がして文様を付けた、立体的な把手(とって)や装飾が発達した土器が全国的に展開します。大森貝塚を発掘したアメリカの動物学者、エドワード・S・モースが、報告書の中で「cord marked pottery(縄目をつけられた土器)」と記したものが、日本語訳されたことが「縄文土器」という名前の由来です。縄文土器は、その多様性から時代差や地域差を分ける基準となっています。
縄文時代は、使われた土器の特徴などから草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられます。その中でも縄文時代中期頃は、前期からの気温の上昇によって温暖な気候になり、灰を利用したアク抜きの技術や網漁などの発達によって食生活が安定したことで人口が増加し、大規模な集落が形成されるようになります。土器には豪華な文様や立体的な装飾をもつ大型の土器が出現し、社会を維持するための独自のまつりが発達しました。

■浄法寺類型(じょうほうじるいけい)の土器
縄文時代中期は、縄文土器が一番芸術的で豪華な装飾を付けられる時期でもあります。その中で、那須地域で生まれ、発達した深鉢形の土器を「浄法寺類型」と呼んでいます。
口縁部から頸部にかけては新潟や会津地方などで作られた火炎土器の影響を受けて、立体的な把手や横方向のS字文様などを模した装飾が付きます。胴部には、関東地方で主流の縄文や東北地方でよく見られる渦巻文様などが付けられます。様々な地域の文様を積極的に取り入れ、那須で育まれた土器なのです。
那珂川町の浄法寺遺跡で発見されたことから、那須地域の特徴的な土器として注目されたのが始まりですが、大田原市周辺の地域が製作の中心地だったようです。

■土器がまとまって見つかる場所
考古学では、昔の人の手で掘られた穴のことを土坑(どこう)と呼びます。その中でも、きんちゃく袋のような形に掘られた土坑は「袋状土坑(ふくろじょうどこう)」と呼ばれ、大田原市の縄文時代中期の遺跡では数多く見つかっています。
袋状土坑は、食べ物を保存した貯蔵庫です。実験によると、温度と湿度がほぼ一定に保たれ、ドングリなどの木の実を翌年まで生で貯蔵しておくのに良い環境だったと考えられています。
しかし、この形の土坑は、1年から数年で崩れてしまったようです。袋状土坑が壊れてしまったときには、ただその穴を土で埋めるだけではなく、割れた土器なども一緒に入れて埋め戻しました。そのため、袋状土坑からは土器がまとまって出土します。
大田原市で発見される袋状土坑からは、那須地域を代表する浄法寺類型の土器のほか、関東地方の土器や東北地方、北陸地方の特徴を持つ土器が同じ土坑から見つかっており、多種多様な土器を使用していたことがわかります。

■縄文王国 大田原!
大田原市では縄文時代中期を代表する集落跡がたくさん見つかっているだけでなく、当時の人たちが残したその痕跡である縄文土器や石器、土製品などが出土しています。今から5000年以上前から、多くの人々がこの地で生活していたことがわかります。9月30日(土)~11月19日(日)まで、大田原市から出土した縄文土器を一挙公開する企画展「縄文王国 大田原!」を、大田原市なす風土記の丘湯津上資料館にて開催します。
※詳細は、本紙16ページをご覧ください。

問合せ:なす風土記の丘湯津上資料館
【電話】0287-98-3322

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