■那須与一宛福原資生(ふくわらすけおき)書状(那須家資料)
今回は、与一の末裔(まつえい)(那須家)に伝来している古文書を紹介します。
本資料は年未詳ですが、福原資生が那須家当主の那須与一に送った挨拶状で、法量は縦30cm、横49.5cmです。福原家にとって、那須家は本家筋かつ那須衆上座(なすしゅうかみざ)(つまり格上)でした。そのため、書止文言(かきとめもんごん)(文末)は「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」と丁寧な形になっています。ちなみに江戸時代の那須家当主は、那須資弥(なすすけみつ)を除いて全員「那須与一」を名乗りました。そのため今回登場する与一は、「扇の的」の彼ではなく、第32代当主の資礼(すけひろ)か第33代の資興(すけおき)です。
資生は、佐久山や滝沢、平沢、薄葉などの3,500石を領した福原家の当主で、幕末期の嘉永(かえい)2年(1849)11月に家督を継ぎました。戊辰戦争では西軍(新政府軍)に味方し、白河・二本松・会津若松攻めに加わり、白河城の守備も務めました。
本資料で資生は、将軍や与一のご機嫌を伺い、「江戸から陣屋のある佐久山に戻りました」と伝えています。この時、福原家の陣屋(じんや)(本居(ほんきょ))は佐久山に、那須家の陣屋は福原にありました。そのため本資料は、近隣の領主同士の交流を示す、貴重な資料です。
本資料は、現在那須与一伝承館で展示しています。この機会に、ぜひご覧ください。
問合せ:那須与一伝承館
【電話】0287-20-0220
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