今年は、1999年12月に北アフリカのモロッコで開催された第23回世界遺産委員会で「日光の社寺」の世界遺産登録が決定され、世界遺産一覧表への記載が行われてから25年の記念すべき年となります。この節目に、改めて世界遺産「日光の社寺」の意義と未来に伝えるための取り組みについて紹介します。
◇世界遺産とは?
1972年にユネスコ総会で採択された「世界遺産条約」に基づくもので、世界遺産一覧表に記載された遺跡や景観、自然などのことです。日本のユネスコ加盟は1992年であり、この時に今後の世界遺産の国内候補(暫定一覧表)を発表しています。「世界遺産は事前にその候補を示さなければ審議されない」という決まりがあるためで、「日光の社寺」は日本初の暫定一覧表に掲載されました。
候補にはそれぞれ世界で唯一のものであるという明確なテーマが必要です。日光は、法隆寺(寺院)、厳島神社(神社)と並び、日本を代表する宗教建築物であることに加え、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の姿をとどめていることから候補になりました。
◇「日光の社寺」について
「日光の社寺」は、二荒山神社・東照宮・輪王寺の江戸時代から残された多くの建造物群と、鎌倉時代にさかのぼるものを含む杉木立(すぎこだち)に囲まれた境内地からなります。東照宮陽明門に代表される国宝9件、重要文化財94件の合計103件の文化財建造物群を有する約50ヘクタールの境内地は、「日光山内」として国の史跡にも指定されています。
◇エリアマップ
世界遺産「日光の社寺」に登録されているエリアや、エリア内の建造物の位置、名称、指定の区分などを確認できます。
■世界遺産「日光の社寺」の歴史
《766年~》
◇はじまりは勝道上人(しょうどうしょうにん)と山岳信仰
日本では、昔から高い山の頂上には神が宿るとされてきました。やがて大陸から仏教が伝わると、神と仏は一体的なものとして敬われるようになります。そして、山頂に至ることが修行であると考えられるようになり、各地の山が開かれていきました。
日光連山の中心である「男体山」は、県内の広い範囲から望むことができます。奈良時代の天平神護2年(766年)、芳賀郡出身の僧である勝道上人は男体山の登頂を志し、大谷川と稲荷川の合流する山裾(やますそ)にベースキャンプを設営します。この場所が後に輪王寺の前身である四龍寺(しほんりゅうじ本)となります。これが「日光の社寺」のはじまりです。
勝道上人は天応2年(782年)、三度目の挑戦で男体山の山頂に至ります。そこで見たものは、周囲に果てしなく広がる山々と光輝く中禅寺湖が一体となった絶景でした。やがて日光は多くの僧侶たちが集まる修行の場となり、神社や寺院が建てられていきます。こうして日光は「日光山」と呼ばれる関東で一番の霊場として栄えていきました。
《1616年~》
◇信仰の聖地「日光山」と天海大僧正
信仰の聖地として栄えた日光山は、広大な領地と数百の僧坊を有する大社寺となります。しかし、戦国時代、豊臣秀吉に敵対した日光山は、所領の大部分を没収され衰退してしまいます。その後、徳川家康が天下統一を果たすと、側近である天海を日光に派遣し、衰退した日光山の再興を命じます。
元和2年(1616年)に家康が亡くなると、遺言により一年後に二代将軍秀忠により「東照社」が建立され、遺骸は日光に移されます。これは天海の影響も大きかったものと思われます。天海は、家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕えた僧で、日光山の最高責任者でもありました。当時の東照社は簡素な造りでしたが、家康の二十年忌にあたる寛永13年(1636年)、三代将軍家光により、現在のような豪華絢爛(ごうかけんらん)な社殿に建て替えられました。また、慶安4年(1651年)に亡くなった家光も、遺言により日光に葬られます。
日光山は徳川家康・家光の重要な霊廟として、江戸時代を通じて手厚い保護を受けることになり、定期的な修理によって創建当時の状態を保ち続けることとなりました。
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